ちかまつはんじ 近松半二

ロマンチック時代物が得意な、シンメトリーの美学者

1725(享保10)年~1783(天明3)

【略歴 プロフィール】
近松半二は本名を穂積成章といい、1725(享保10)年、儒学者穂積以貫(ほづみいかん)の二男(もしくは三男)として大坂に生まれました。父以貫が人形浄瑠璃竹本座に親しく出入りし文芸顧問のような立場で相談に乗っていたことから半二も浄瑠璃に親しみ、竹本座の座元で作者でもあった二代目竹田出雲(たけだいずも。当時、竹田外記)に入門します。1751(宝暦1)年10月、27歳で『役行者大峯桜(えんのぎょうじゃおおみねざくら)』の作者として名を連ねたのをはじめとして、竹田出雲、三好松洛(みよししょうらく)、吉田冠子(よしだかんし)らとともに合作者として『日高川入相桜王(ひだかがわいりあいざくら)』『由良湊千軒長者(ゆらのみなとせんげんちょうじゃ)』など数々の作品を著し、明和年間(1764~1771年)には、作者のトップである立作者(たてさくしゃ)として地位を固めていたとおもわれます。ちょうどこの時期は人形浄瑠璃の人気が翳り(かげり)、竹本座、豊竹座共に経営が苦しくなっていましたが、1771(明和8)年に半二が書いた『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』が上演されると大入りとなり、竹本座では抱えていた数年来の借金を返して経営を立て直すことができたといわれています。

【作風と逸話】
歴史上の事件に取材し、謎解きの要素をからめた複雑な構造を得意とし、雄大な歴史劇ともいうべき作品を多く著しました。視覚的にも、上手と下手をシンメトリーに使う華やかな手法が(歌舞伎では両花道)特長的で、現在でも多くの作品が人形浄瑠璃だけでなく歌舞伎でも上演され続けています。半二は若いころに放埓(ほうらつ)な生活を送っていたと伝えられ、その経験からか、市井の人々の心情やつつましい暮らしぶりなども細かく描写しています。

近松門左衛門を敬愛した父以貫の影響を受け、直接会ったことはない門左衛門を師と仰ぎ、竹田の門人でありながら自ら“近松”姓を名乗りました。父が近松門左衛門から譲られたという硯を終生の宝として身近においていたといいます。遺作は『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』で、八段目岡崎の段まで執筆したものの、その初演を目にすることなく亡くなったと伝えられます。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
奥州安達原(おうしゅうあだちがはら) 1762(宝暦12)年9月
蘭奢待新田系図(らんじゃたいにったけいず)1765(明和2)年2月
姻袖鏡(こんれいそでかがみ)1765(明和2)年9月
本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう) 1766(明和3)年1月
太平記忠臣講釈(たいへいきちゅうしんこうしゃく)1766(明和3)年10月
関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)1767(明和4)年8月
三日太平記(みっかたいへいき)1767(明和4)年12月
傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)1768(明和5)年6月
近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた) 1769(明和6)年12月
妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん) 1771(明和8)年1月
心中紙屋治兵衛(しんじゅうかみやじへえ)1778(安永7)年4月
道中亀山噺(どうちゅうかめやまばなし)1778(安永7)年7月
往古曽根崎村噂(むかしむかしそねざきむらのうわさ)1778(安永7)年9月
新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 1780(安永9)年9月
伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく) 1783(天明3)年4月

【舞台写真】
『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環 [左から]杉酒屋娘お三輪(中村七之助)、烏帽子折求女実は藤原淡海(尾上松也)、入鹿妹橘姫(中村児太郎) 平成27年12月歌舞伎座