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おさないかおる 小山内薫

歌舞伎とも縁の深い、日本の新劇運動の立役者

1881(明治14)年7月26日~1928(昭和3)年12月25日

【略歴 プロフィール】
広島市大手町に生まれ、1885(明治18)年に一家とともに東京に移り住みます。東京帝国大学英文科に入り、在学中より詩や翻訳を寄稿するうち、森鴎外とその弟の三木竹二(みきたけじ)に認められて新派の伊井蓉峰(いいようほう)と知り合い、真砂座の座付作者になります。1907(明治40)年に雑誌「新思潮」を創刊し西欧の文学や演劇の紹介につとめました。その頃二代目市川左團次が約9ヶ月の外遊から帰国します。左團次とはもともと中学の頃、戯作者であり新聞記者の鶯亭金升(おうていきんしょう)門下で知り合った仲でしたが、西欧諸国の演劇を視察してきた左團次と小山内は意気投合します。そして1909(明治42)年西欧翻訳劇の上演と演出を実践すべく自由劇場を設立し、旗揚げ公演として11月に有楽座でイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演します。当時小山内は29才、左團次は30才でした。以後日本の新劇運動を推し進め、演出や俳優の教育に邁進し、1912(大正1)年には西欧の演劇事情視察のため最初の渡欧をしています。
1924(大正13)年6月に演劇の実験室として築地小劇場を設立、当初は翻訳劇を中心に上演しましたが、のちに坪内逍遙作『役の行者(えんのぎょうじゃ)』や歌舞伎を改作した『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』などを上演するようになります。小山内は歌舞伎や新派といった旧来の演劇を踏まえた上で、西欧の演劇を取り入れ、新しい日本の演劇を創造しなくてはならないという信念を持っていました。また劇評も手掛け、1927(昭和2)年より1年間、朝日新聞で執筆した演劇時評は高い評価を得ています。しかし1928(昭和3)年12月25日、招待された日本橋偕楽園での舞台の打ち上げの席で、急逝しました。47歳でした。

【作風と逸話】
翻訳劇を中心に新劇運動を推し進めた小山内ですが、日本の将来の演劇の主体となるものは、数百年間日本において発達してきた歌舞伎のスチール(型)である、と述べています。晩年には歌舞伎の古典の改作にも取り組み、近松門左衛門の原作を新しいスペクタクルとして改作、竹本を使わず現代語にして発表するなど、西洋一辺倒ではない日本人のための演劇を創造することに力を注ぎました。歌舞伎を演出する際には、歌舞伎俳優のキャリアを尊重し、なるべく俳優の持っているいい持ち味を引き出すように導くことに徹して、あまり細かい演出はしなかった、と門下であった巌谷三一(いわやさんいち)が述べています。

明治の末頃から、西欧より文芸映画が輸入されて上映会が開かれると、その解説を引き受けたりしていた小山内でしたが、1920(大正9)年に松竹キネマ合名社創立の際には、松竹キネマ俳優学校長・蒲田撮影所総監督として迎えられ、総監督として映画製作を指揮しました。さらに松竹キネマ研究所を創立して所長となり、第1回作品として1921(大正10)年4月8日に封切られた『路上の霊魂(ろじょうのれいこん)』では、自ら演出し主演もしています。その実験的な内容から興行的にはいまひとつでしたが、進歩的な映画ファンやジャーナリズムには支持され、のちの日本映画に影響を与えた画期的な作品とされています。(井川繭子)

【代表的な作品】
息子(むすこ) 1923(大正12)年3月
森有礼(もりありのり) 1926(大正15)年12月
西山物語(にしやまものがたり) 1928(昭和3)年4月
国性爺合戦(こくせんやかっせん) 1928(昭和3)年10月 ※改作 築地小劇場初演
博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら) 昭和3(1928)年12月 ※改作 歌舞伎座

【舞台写真】
『息子』[左から]金次郎(市川染五郎)、火の番の老爺(中村歌六) 平成17年11月歌舞伎座
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