昔、はじめて芝居を観た田舎のお客さんが「今日は大切な刀を紛失したとかで、芝居どころではなかったらしい」と感想をもらしたという笑い話がある。それくらい、歌舞伎には宝物紛失をめぐる芝居がたくさんあり、「お家騒動物」と呼ばれる一大ジャンルがあるのである。武家や公家に伝わる大切な宝物が、何者かに奪われお家が断絶してしまい、跡継ぎの若君や家臣などが町人に身をやつして宝物を探し出し家を再興しようと苦労するストーリーになっている。大切な宝が質入れされてしまい、請け出すための大金が必要になったり、奪い合いになって殺人事件が起こったり。敵討ちや恋模様、身売りや貧苦などの艱難辛苦がてんこ盛りに盛られる。そして、ついにお宝が取り戻されると、めでたくお家再興が叶ってハッピーエンドとなる。そこでは、お宝は波乱のドラマ進行のための強力なアイテムなのだ。ときにはお宝が持つ威徳が思わぬ奇跡を呼び起こし、主人公の危機を救うこともある。
そもそも戦国時代の武家社会では、家来の軍功に報いる恩賞として、主君から地位や領地が与えられた他に、高価な茶器などの品物が下された。賜った家ではそれを宝物として代々伝えた。もし盗賊などにこれを奪われては面目丸つぶれである。現代人から見れば、どんなに大切な品物なのか気になるところ。江戸の観客もきっと気にしたことだろう。名刀や由緒ある書画の掛け軸、短冊に、香炉や茶器、色紙や系図に仏像などいろいろバラエティーがあるのだが、芝居に夢中になってしまうと、宝物の姿や値打ちなど細かいことはあまり印象に残らない。そんな宝物の有名どころを、名刀を筆頭にご案内しよう。
宝物は話を展開させる大事な小道具なのだが、その形容がクローズアップされることはあまりなく、また観劇後にはその名を忘れてしまうことも多い。しかし、なかには現在も宝物として美術館などに収められているものもあり、基礎的な知識として知っておくと、より楽しく歌舞伎が観られるようになるだろう。(前川文子)
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『加賀見山旧錦絵』中老尾上(坂東玉三郎) 平成17年10月歌舞伎座