けまなんぼく 食満南北

明治大正昭和の関西歌舞伎を代表する作者

1880(明治13)年7月31日 ~ 1957(昭和32)年5月14日

【略歴 プロフィール】
1880(明治13)年7月31日大阪堺市の酒造家に生まれ、本名は貞二(ていじ)といいます。子供の頃から芝居好きで、さまざまな職業を経験しますが、小説家の村上浪六に弟子入りし、その紹介で1905(明治38)年に東京歌舞伎座の福地桜痴の門下に入って、歌舞伎作者の修業を始めます。翌年には大阪に戻り、三代目片岡我當(のちの十一代目片岡仁左衛門)に誘われて、松竹土地興行会社に入社します。その後初代中村鴈治郎の長男である林長三郎(のちの二代目林又一郎)の口利きもあって初代中村鴈治郎付きの狂言作者となり、関西歌舞伎を代表する座付作者として活躍します。1911(明治44)年12月南座で初演された『聚楽物語(じゅらくものがたり)』は、大阪松竹社長の白井松次郎に史劇風の作品が欲しいと相談され、三日間で書いたといいます。大正期に一時、六代目鶴屋南北を名乗っていた時期もありますが、昭和期に入って再び名字を食満に戻しています。また歌舞伎にとどまらず、新派や松竹少女歌劇、文楽などにも幅広く脚本を提供しました。川柳や書画も得意で、自画自賛の軸や色紙も多く手掛け、『大阪藝談』『作者部屋から』『大阪の鴈治郎』『南北』などの著書も残しています。1957(昭和32)年5月14日、76歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
関西歌舞伎のために上方狂言の流れを汲んだ作品を数多く残した食満南北ですが、『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』などの近松門左衛門の浄瑠璃作品の脚色や、谷崎潤一郎の『お艶殺し(おつやごろし)』や芥川龍之介の『お富の貞操(おとみのていそう)』など文学作品の脚色もしています。生涯に残した作品数は百数十篇に及ぶといわれています。

食満という名は筆名ではなく本名です。祖父の藤平(とうへい)は、元は堀江という名字でしたが、身を立てようと堺へ出てきたとき、「堀江という月並な姓では、将来世の中へ出ても目立たないから、食満という故郷の村の名を附けよう」といって、摂津川辺郡園田村の下食満村の出身であるところから食満と名乗った、と名前の由来について自伝『作者部屋から』の中で語っています。(井川繭子)

【代表的な作品】
聚楽物語(じゅらくものがたり) 1911(明治44)年12月
恋の三位(こいのさんみ) 1912(明治45)年5月
ぬれごろも 1912(明治45)年6月
桜のもと(さくらのもと) 1918(大正7)年4月
御浜御殿(おはまごてん) 1920(大正9)年11月 ※新派
恋巴(こいともえ) 1928(昭和3)年5月
杜若恋在原(かきつばたこいのありわら) 1931(昭和6)年5月
椀久ものぐるひ(わんきゅうものぐるい) 1934(昭和9)年4月
維新の春(いしんのはる) 1935(昭和10)年1月

【写真下】
食満南北句碑 大阪市中央区道頓堀1番 相合橋北詰
「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」
大阪市中央区役所発行「中央区史跡文化事典」より