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かわたけもくあみ 河竹黙阿弥

江戸と明治、二つの時代を生きた歌舞伎の大問屋

1816(文化13)年~1893(明治26)年

【略歴 プロフィール】
1816(文化13)年に生まれた河竹黙阿弥は、江戸と明治、二つの時代で活躍した狂言作者です。本名を吉村芳三郎(よしむらよしさぶろう)といい、20歳の頃、市村座に狂言作者勝諺蔵(かつげんぞう)として出勤、その後河原崎座にも勤めました。一時、狂言作者としての名を返上し実家の質屋を継ぎますが、1年後にはそれも整理し、ふたたび柴晋輔(しばしんすけ)という名で河原崎座に戻りました。1843(天保14)年、河原崎座は浅草の猿若町に移転、28歳で二代目河竹新七を襲名し立作者となりますが、あまり新作を発表する機会のないまま不本意な数年を送ることになります。
しかし、1854(嘉永7)年、四代目市川小團次の求めに応じて三度までも書き直した『忍ぶの惣太』が大入りとなったことから、小團次の信頼を得て執筆の腕を振るうようになります。1855(安政2)年の安政の大地震以後市村座に移り、小團次と『鼠小僧』『三人吉三』など江戸末期の不穏な世情を写し取った白浪(しらなみ)狂言(盗賊もの)を多く生み出し、二人は白浪役者、白浪作者と呼ばれるようになりました。
黙阿弥は江戸三座を掛け持つ活躍をするようになりますが、1866(慶応2)年小團次が亡くなってしまいます。黙阿弥は冷遇されていた小團次の遺児初代市川左團次とともに市村座を退座し、彼を世に出すために心を砕きました。
明治期、劇界には演劇改良の気運が高まり、黙阿弥もことさら熱心だった九代目市川團十郎のもとめに応じて、『高時』など史実に忠実で写実な演出をとりいれた活歴物(かつれきもの)といわれる作品を書くようになります。また、五代目尾上菊五郎のためには、文明開化の世相や風俗を映した “散切狂言(ざんぎりきょうげん)”も多数発表しています。散切狂言とはちょんまげを切り落とした散切頭の人物が活躍する明治初年の風俗をとり入れたお芝居のことを指します。
1881(明治14)年、それまでの新七から黙阿弥と改名し、引退を宣言しますが、世間はそれを受け入れるはずもなく、黙阿弥はスケ(助筆)という名目ながら河竹黙阿弥、古河黙阿弥、河竹其水などといくつかの名前で実質の立作者として活躍し続け、1893(明治26)年、76歳で死去しました。
門人のために狂言作者の多方面にわたる職務を細かく記した『狂言作者心得』を残しています。

【作風と逸話】
黙阿弥は、移り変わる時代の中で、数々の逆風を受けながらも信条としてきた“三親切(役者に親切、座元に親切、お客に親切)”を守り通し、現代に通じる名作を多数残しました。“つらね”に代表される七五調の美文に彩られた台詞とともに、暗澹とした江戸の町に暮らす人々の生活を細かく活写しました。所作事にも腕を発揮し、新時代の風潮として流行した松羽目物でも『土蜘』『茨木』『船弁慶』などを残しています。まさに“芝居の大問屋”でした。

狂言作者の仕事のひとつに、出来上がった台本を俳優たちを集め読んできかせる“本読み”という作業がありました。これは主要な俳優たちを前に、狂言の筋運び、登場人物の役柄や関係を明らかにし、ひいてはその性根を披露する演出的な意味もこめた作業でした。黙阿弥はこの本読みが非常にうまかったといいます。ある時、弟子の狂言作者がこの本読みをしたところ、俳優たちがその内容に納得せず、脚本の手直しを要求してきました。聞いていた黙阿弥は、わかりましたとその台本をもって帰り、翌日、なんの手直しも入れずに再び自ら読んで聞かせたところ、今度は誰もどこからも異論は出ず、そのまま採用となりました。また、舞台の装置図や絵看板の下絵を書くのも狂言作者の役割でしたが、黙阿弥は絵も得意で自ら事細かに描いています。
 
若い頃こそ放蕩な生活をおくったようですが、狂言作者になってからは人一倍生真面目で質実剛健な生活をつづけました。付き合いで宴席に出ることがあっても、その堅さを見込まれてその席の主催者から財布をあずけられていたそうです。また小團次の息子の左團次の盛り立てに努力し、恩義に報いる義理の堅さも見せています。この左團次は黙阿弥の『慶安太平記(けいあんたいへいき)』で才能を開花させ、のちに“團菊左”と言われる明治の名優の一角にあげられる俳優になりました。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
都鳥廓白浪~忍ぶの惣太(みやこどりながれのしらなみ~しのぶのそうた) 1854(嘉永7)年3月
蔦紅葉宇津谷峠~文弥殺し(つたもみじうつのやとうげ~ぶんやごろし) 1856(安政3)年9月
鼠小紋東君新形~鼠小僧(ねずみこもんはるのしんがた~ねずみこぞう) 1857(安政4)年1月
網模様燈籠菊桐~小猿七之助(あみもようとうろのきくきり~こざるしちのすけ) 1857(安政4)年7月
黒手組曲輪達引~黒手組助六(くろてぐみくるわのたてひき~くろてぐみすけろく) 1858(安政5)年3月 ※「江戸桜清水清玄(えどざくらきよみずせいげん)」の二番目
小袖曽我薊色縫~十六夜清心(こそでそがあざみのいろぬい~いざよいせいしん) 1859(安政6)年2月
三人吉三廓初買~三人吉三(さんにんきちさくるわのはつがい~さんにんきちさ) 1860(安政7)年1月
加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ) 1860(安政7)年3月
八幡祭小望月賑~縮屋新助(はちまんまつりよみやのにぎわい~ちぢみやしんすけ) 1860(万延1)年7月
青砥稿花紅彩画~白浪五人男、または弁天娘女男白浪(あおとぞうしはなのにしきえ~しらなみごにんおとこ、べんてんむすめめおのしらなみ) 1862(文久2)年3月
勧善懲悪覗機関~村井長庵(かんぜんちょうあくのぞきからくり~むらいちょうあん) 1862(文久2)年閏8月
富治三升扇曽我(ふじとみますすえひろそが) 1866(慶応2)年2月 ※のちに「船打込橋間白浪~鋳掛松(ふねへうちこむはしまのしらなみ~いかけまつ)」と改題
増補桃山譚~地震加藤(ぞうほももやまものがたり~じしんかとう) 1869(明治2)年8月 ※初演は「桃山譚(ももやまものがたり)」
樟紀流花見幕張(くすのきりゅうはなみのまくはり) 1870(明治3)年3月 ※のちに「慶安太平記(けいあんたいへいき)」と改題
梅雨小袖昔八丈~髪結新三(つゆこそでむかしはちじょう~かみゆいしんざ) 1873(明治6)年6月
東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん) 1873(明治6)年11月
雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ) 1874(明治7)年10月 ※のちに「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」と改題
早苗鳥伊達聞書~実録先代萩(ほととぎすだてのききがき~じつろくせんだいはぎ) 1876(明治9)年6月
富士額男女繁山~女書生(ふじびたいつくばのしげやま~おんなしょせい) 1877(明治10)年4月
黄門記童幼講釈~黄門記(こうもんきおさなごうしゃく~こうもんき) 1877(明治10)年12月
松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく) 1878(明治11)年6月
人間万事金世中(にんげんばんじかねのよのなか) 1879(明治12)年2月
極付幡随長兵衛~湯殿の長兵衛(きわめつきばんずいちょうべい~ゆどののちょうべい) 1881(明治14)年10月
島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ) 1881(明治14)年11月
新皿屋舗月雨暈~魚屋宗五郎(しんさらやしきつきのあまがさ~さかなやそうごろう)1883(明治16)年5月
北条九代名家功~高時(ほうじょうくだいめいかのいさおし~たかとき) 1883(明治17)年11月
水天宮利生深川~筆屋幸兵衛(すいてんぐうめぐみのふかがわ~ふでやこうべえ) 1885(明治18)年2月
四千両小判梅葉~四千両(しせんりょうこばんのうめのは~しせんりょう) 1885(明治18)年11月
盲長屋梅加賀鳶~加賀鳶(めくらながやうめがかがとび~かがとび) 1886(明治19)年3月

【舞台写真】
『青砥稿花紅彩画』[左から]早瀬主水娘実は弁天小僧菊之助(尾上菊五郎)、玉島逸当実は日本駄右衛門(市川團十郎)平成20年5月歌舞伎座
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