おかおにたろう 岡鬼太郎

厳しい批評眼を持ち、演出や脚本にも意欲を示した劇界の重鎮

1872(明治5)年8月1日~1943(昭和18)年10月29日

【略歴 プロフィール】
本名は岡嘉太郎(おかよしたろう)といい、佐賀藩士岡喜知の子として東京芝山内に生まれました。慶応義塾を卒業後に時事新報社に入社して演芸欄を担当し劇評を書くようになり、報知新聞に移ってからは岡鬼太郎の筆名で執筆します。その後さらに各紙を移って演芸記者として活躍しました。1902(明治35)年1月歌舞伎座で上演された『金鯱噂高浪(きんのしゃちほこうわさのたかなみ)』を同い年の岡本綺堂との合作で発表し、文士劇に参加して自らも俳優として舞台に立ったこともありました。また、東京の花街を舞台にした『昼夜帯』『二筋道 花柳巷談』『三筋の綾 花柳風俗』『合三味線』『江戸紫』などの花柳小説は、のちに永井荷風に高く評価されています。

1907(明治40)年8月に二代目市川左團次とともに明治座に入り、そのブレーンとして革新興行に参加します。『毛抜』『鳴神』などの歌舞伎十八番の復活上演の脚本も手がけました。1912(大正1)年7月に左團次一座が松竹専属となると鬼太郎も松竹に入り、文芸顧問として演出指導に尽力しました。世話物を得意として、1920(大正9)年10月新富座で二代目左團次が初演した『今様薩摩歌(いまようさつまうた)』、1922(大正11)年3月新富座で十三代目守田勘弥が演じた『深与三玉兎横櫛(ふけるよさつきのよこぐし)』、子供芝居で活躍していた頃から鬼太郎が目を掛けていたという初代中村吉右衛門主演で1928(昭和3)年3月本郷座『眠駱駝物語(ねむるがらくだものがたり)』などを発表します。
劇場経営や劇作、演出にも携わるいわゆる幕内(まくうち)の人ではありましたが、その批評はかなり辛辣でシビアな内容であったため俳優にも恐れられたといわれています。歌舞伎を知り尽くしていながらその清廉潔白な態度もあって、当時最も権威ある歌舞伎批評として社会的にも一目置かれる存在でした。鬼太郎自身が“劇評”とはいわず“評判”とか“噂”と呼んだそれらの評論は、のちに『鬼言冗語(きげんじょうご)』『歌舞伎眼鏡(かぶきめがね)』といった著作にまとめられています。
1943(昭和18)年、新しい演劇雑誌「演劇界」「日本演劇」の発行を機に発足した日本演劇社社長に就任しましたが、その創刊をみることなく同年10月29日に亡くなりました。息子に洋画家の岡鹿之助(おかしかのすけ)、美術評論家の岡畏三郎(おかいさぶろう)がいます。

【作風と逸話】
『今様薩摩歌』『深与三玉兎横櫛』など、古典の作品を書き直した世話物を多く手掛けましたが、これらについて鬼太郎は、「なるべく近代的なテーマをできるだけ古典にやってどこまでいけるか試してみるつもりで書いた」と語っています。歌舞伎を大正期の現代劇として近代的な知性に基づいて新たに解釈し、古典の形式にはめ込んで巧みな心理描写や詩情あふれるせりふで表現した作品は、新歌舞伎の世話物の傑作です。また江戸音曲についても造詣が深く、所作事作品も30作余り残しています。

鬼太郎は周囲の人との付き合いも実に慎重で、一切隙のない暮らしぶりだったといいます。長男の鹿之助がまだ子供の頃、両親の留守中にある俳優が訪ねてきて挨拶代わりに菓子折りを置いて行ったのを受け取ったところ、帰宅した父に大変叱られて、人力車に乗せられて返しに遣られそうになったと回想しています。時には厳しすぎるほど清廉潔白な性格であったからこそ、劇界の大御所として周囲から敬われ厚い信頼を寄せられることになったといえます。(井川繭子)

【代表的な作品】
金鯱噂高浪(きんのしゃちほこうわさのたかなみ) 明治35(1902)年1月
歌舞伎十八番の内 毛抜 明治42年(1909)9月 ※復活上演脚本
歌舞伎十八番の内 鳴神 明治43年(1910)5月 ※復活上演脚本
小猿七之助(こざるしちのすけ) 大正9(1920)年1月
今様薩摩歌(いまようさつまうた) 大正9(1920)年10月
深与三玉兎横櫛(ふけるよさつきのよこぐし) 大正11(1922)年3月
独楽売(こまうり) 大正12年3月26‐31日 ※羽衣会
眠駱駝物語(ねむるがらくだものがたり) 昭和3(1928)年3月
鶴寿千歳(かくじゅせんざい) 昭和3(1928)年11月

【舞台写真】
『眠駱駝物語』[左から]紙屑買久六(市川染五郎)、遊人手斧目半次(尾上松緑) 平成28年9月歌舞伎座