たかやすげっこう 高安月郊

永遠の文学青年が描く歴史絵巻

1869(明治2)年2月16日~1944(昭和19)年2月26日

【略歴 プロフィール】
高安月郊は本名を高安三郎といい、6代続く医家に生まれました。当時実家は大阪でも名だたる大病院で、嫡男である月郊は家業の医術を学ぶため13歳で上京しますが、文学に傾倒します。イプセンなどの西洋文学を翻訳して日本に紹介したことでも知られる一方、詩人としても人気を得ますが、実家からは廃嫡され、しばらく居を定めぬ生活を送ります。1896(明治29)年初めての戯曲となる『重盛(しげもり)』を自費出版しますが、これは従来の歌舞伎や新派の脚本とは違い、義太夫も合方も使わない台詞劇でした。その後京都、大阪と関西に居住し、関西で演劇改良運動を進める京都演劇改良會の依頼を受け、シェイクスピアの『リア王』を翻案した『闇と光』や『月照』などの戯曲を提供します。また1903(明治36)年、『江戸城明渡(えどじょうあけわたし)』を出版し、一日だけの慈善公演ではあったものの川上音二郎によって明治座で上演され東京劇壇への進出を果たします。この作品も踊りも鳴り物も入らない写実的な芝居で、当時大物の歌舞伎俳優が“書生の素人芝居”と評したことから物議をかもしました。しかし1898(明治38)年、七五調や義太夫も復活させた歌舞伎『桜時雨(さくらしぐれ)』は評判になり、以後何度か再演され彼の代表作となりました。大正末以降は東京で暮らし、歴史に取材した脚本をいくつか書きましたが、昭和に入るころから劇作からは遠ざかりました。1944(昭和19)年に東京で75歳で亡くなっています。

【作風と逸話】
新歌舞伎の作者の中では珍しい上方出身であり、京、大阪だけでなく東京にも住んだことから、東西両方の文化を比較する感性をもっていたと言われています。新歌舞伎とはいいながら、近松門左衛門の作や上方歌舞伎の世話物に影響を強く受けたものが多く見受けられます。また上演に際しては絵画を描くように風俗、衣裳や道具の考証、色使いに注意を払っていたそうで、『桜時雨』や『関ケ原』の当時の舞台写真をみると、衣裳の好みなどに上方風の華やかさが感じられます。

月郊は抒情詩人としても有名で、『天無常(てんむじょう)』『犠牲(ぎせい)』などの詩集を出しています。ロマン主義を感じさせる作風で、詩人としての筆名は“愁風吟客(しゅうふうぎんかく)”を使っていました。言葉と音楽の関係にも興味を持っていたようで、楽劇(歌劇)の研究にも熱心だったそうです。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
闇と光(やみとひかり) 1902(明治35)年9月 ※京都演劇改良會公演 福井茂兵衛一座
月照(げっしょう) 1902(明治35)年9月 ※京都演劇改良會公演
大塩平八郎(おおしおへいはちろう) 1902(明治35)年11月 ※京都演劇改良會第二回公演
江戸城明渡(えどじょうあけわたし) 1903(明治36)年6月 ※新派公演
桜時雨(さくらしぐれ) 1905(明治38)年12月
関ヶ原(せきがはら) 1919(大正8)年10月
醍醐の春(だいごのはる) 1921(大正10)年6月

【写真上】
「上方」125号(HP「音曲の司」掲載)より転載

【舞台写真】
『桜時雨』六条廓外の場 灰屋紹由(十一代目片岡仁左衛門) 上演年月・劇場は不明
灰野紹由が、吉野太夫に入れあげている放蕩息子・三郎兵衛の身を案じて、六条廓の入口で中の様子をうかがう場面