やまもとゆうぞう 山本有三

歌舞伎、新派俳優に愛された国民的劇作家

1887(明治20)年7月27日~1974(昭和49)年1月11日

【略歴 プロフィール】
1887(明治20)年、山本有三、本名勇造は栃木県栃木町の呉服商の家の長男に生まれました。有三の父は、旧宇都宮藩士で後に呉服商になった人物でした。有三は高等小学校卒業後、東京浅草の呉服屋へ見習奉公に出されます。しかし小僧奉公は一年と続かず、家に戻った有三は父と衝突して再び上京、その後第一高等学校を経て東京大学独文科へと進みます。処女作は1909(明治42)年雑誌「歌舞伎」に発表した戯曲『穴(あな)』で、東京俳優学校の試演劇場で初演されますが、これは第一高等学校時代に足尾銅山を見学して書いた作品といわれています。その後東大卒業後に菊池寛、芥川龍之介らと雑誌「(第三次)新思潮」を創刊し次々と戯曲を発表、新派の井上正夫一座などによって上演されます。1921(大正10)年には『坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)』が六代目尾上菊五郎によって、『嬰児殺し(えいじごろし)』が七代目松本幸四郎によって上演されると、新進の劇作家として認められるようになりました。1925(大正14)年『同志の人々(どうしのひとびと)』では、六代目菊五郎の演じる、極限状態に置かれた人間の緊迫感あふれる舞台が話題となりました。1932(昭和7)年に明治大学文学部文芸科長に就任し、以後は『女の一生』『路傍の石』などの小説を主に執筆するようになります。戦時下1943(昭和18)年に発表された戯曲『米百俵(こめひゃっぴょう)』も話題を呼びました。戦後は国語教育に力を注ぎ国語研究所を設立、また参議院議員も務め、1965(昭和40)年には文化勲章も受章しました。1974(昭和49)年1月11日静岡県湯河原にて86歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
彼の作品は歌舞伎や新派の俳優によって演じられて、庶民から知識人までの幅広い観客層に受け入れられました。また、後年小説を主に執筆していきますが、代表作『女の一生』『真実一路』『路傍の石』など劇化、映画化されたものも多く、多くの人々に親しまれてきました。有三の母は芝居好きで、有三が幼い頃、よく劇場に連れて行ってくれたそうです。こうした商家に育った環境などの影響もあって、一般大衆を対象とした親しみやすい戯曲を、新派や歌舞伎に多く提供した劇作家であるといえるでしょう。彼自身は欧米の近代劇に大きな影響を受けていますが、純粋にテーマを追求する新劇志向というより、舞台効果や人物造形などに優れた点が特徴となっています。また作品に用いる言葉を大事にする作家で、新歌舞伎の作家の中でも特に修辞的に破綻がなく優れた作品といわれています。

当時は歌舞伎俳優が小説家の戯曲作品を取り上げて上演する機運が高まっていたころでした。自身が上演する新作を探していた六代目菊五郎も、彼のブレーンのひとりであった劇作家の岡村柿紅(おかむらしこう)の紹介で有三を知ったようです。有三が菊五郎と会って、考えていた『坂崎出羽守』の構想を話すと、菊五郎は大変乗り気になって、劇中人物の心情や行動の中に自分自身と通じるものを感じては、ときどき「それはあっしだ」と口をはさんだといわれています。それを受けて有三は戯曲を執筆、1921(大正10)年9月に雑誌「新小説」に発表すると、同月のうちに市村座で上演されました。(井川繭子)

【代表的な作品】
生命の冠(いのちのかんむり) 1920(大正9)年2月 ※新派
津村教授(つむらきょうじゅ) 1920(大正9)年10月26~30日 ※文芸座
嬰児殺し(えいじごろし) 1921(大正10)年3月
坂崎出羽守(さかざきでわのかみ) 1921(大正10)年9月
海彦山彦(うみひこやまひこ) 1924(大正13)年4月
同志の人々(どうしのひとびと) 1925(大正14)年5月
女人哀詩(にょにんあいし) 1930(昭和5)年1月 ※新派

【舞台写真】
『坂崎出羽守』坂崎出羽守成政(二代目尾上松緑) 昭和34年9月明治座