義経都落ち~安宅の関

『義経千本桜』の物語は吉野山で結末を迎えましたが、実際には義経の流浪の旅はその後も続きました。『義経記』は、奥州を目指した義経一行が、加賀国(現在の石川県)の大名富樫介に怪しまれるも、「東大寺の勧進を行う山伏である」という弁慶の申し開きで救われたことや、やはり弁慶が機転を利かせて義経を打ち叩いたことで渡し場を無事通過したことなどを記します。
こうした記述から生まれたのが、能の『安宅(あたか)』です。安宅の関の関守富樫某の追及を受けた弁慶は、持ち合わせた巻物を東大寺勧進の勧進帳であると偽って読み上げ、関を通ることを許可されます。しかし、富樫は強力の姿に身をやつした義経に目をつけます。そこで弁慶は咄嗟に義経を杖で打ち、他の供の者たちも富樫に詰め寄ります。迫力に圧された富樫は、義経一行を通すのでした。さらに、義経一行を呼び止めて酒を振る舞う富樫に対して比叡山の延年の舞を披露し、義経らを無事落ち延びさせる能の弁慶は知力にもすぐれたヒーローとして描かれています。
これに対して初代桜田治助が歌舞伎『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』の中で描いた弁慶は、より「力」の側面が強調された人物となっています。弁慶は安宅の関でわざと縄に縛られ、義経らが遠くまで逃れる時間を稼いだ上で、本当の力を出してみせます。縄を引きちぎり、関の番卒たちの首を引き抜いては巨大な天水桶に投げ込み、芋を洗うようにかき回すという設定は現代人からすると非現実的ですが、圧倒的な力の魅力を見せつけるものです。この弁慶を初演で演じたのは、四代目市川團十郎でしたが、幕末にはそのひ孫に当たる七代目團十郎がより能に近い内容の長唄による舞踊劇『勧進帳(かんじんちょう)』を初演。歌舞伎十八番の一つとされたこの作品は、近代に入って洗練を加えつつ、今日も頻繁に上演されています。

史実では、この後義経は無事に平泉に戻ったのですが、藤原秀衡の死後、頼朝の命令で秀衡の息子泰衡(やすひら)の軍勢に襲われ、1189(文治5)年、衣川(ころもがわ)にあった館で自刃し果てました。平家追討の戦功がありながら、兄によって滅ぼされてしまったのです。31年の短い生涯でした。(日置貴之)

【写真】
『勧進帳』[左から]源義経(中村勘三郎)、武蔵坊弁慶(市川團十郎)、富樫左衛門(中村梅玉) 平成22年1月歌舞伎座