あらごととしんれいごと 荒事と神霊事

荒事は元禄期(1688~1704)に江戸で活躍した初代市川團十郎(1660~1704)が創始したとされています。彼は当時流行した金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)の演出を取り入れ、全身を赤く塗り、隈取りをとって、超人的力で悪人を蹴散らかす立ち回りを演じたとされます。もともとわが国には荒人神(あらひとがみ)や御霊(ごりょう)を祀る風習がありました。怨みをのんで死んだ若者の霊を御霊とあがめ、その祟りを鎮めるための祭礼がいまも各地に伝わっています。曽我五郎や『暫』の鎌倉権五郎、『押戻』の大館左馬五郎などに共通する「五郎」という名は「御霊」に通じています。1697(元禄10)年の江戸中村座『参会名護屋(さんかいなごや)』では、團十郎扮する不破伴左衛門は草履打で恥辱を受けて自刃してから、大詰で死に瀕した山三郎と葛城の枕元に現れ、「まことはわれ、仏法守護の鍾馗大臣」と名乗って鍾馗の姿を現しました。この当時、江戸では寺社の開帳が流行していました。芝居でも不動明王や愛染明王、鍾馗などに扮する「神霊事」が畏敬と熱狂をもって迎えられ、人々は賽銭を投げて拝んだのです。これらの神霊は全身を青や赤で塗り、忿怒の形相に、手には宝剣などの武器をもっていました。團十郎が演じた「見得」「にらみ」「隈取り」や激しい立廻り、飛び六法などは、こうした神霊の演出からきたと思われます。しかし彼が創始した荒事の魅力は、明るく単純明快なストーリー、純粋な少年の正義感を表す角前髪に力紙、仁王襷などの派手で大げさな扮装、そして稚気と洒落っ気にあふれた「つらね」などの雄弁術にありました。その演出はやがて人形浄瑠璃から移入された『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』や『菅原伝授手習鑑(すがわらでんしゅてならかがみ)』車引、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』鳥居前などにまで取り入れられていきました。(浅原恒男)

【写真上】
『雷神不動北山櫻』鳴神上人(市川海老蔵) 平成26年12月歌舞伎座

【写真下】
『雷神不動北山櫻』[左から]制多迦童子(片岡市蔵)、不動明王(市川海老蔵)、矜羯羅童子(市川道行) 平成26年12月歌舞伎座