数々の名作を生み出し、後進を支えた浄瑠璃界のご意見番
生年不詳 ~ 1771(明和8)年?【略歴 プロフィール】
浄瑠璃作者。三好松洛は18世紀半ばの豊竹座と竹本座が人気を競い人形浄瑠璃が隆盛を極めていた時代に、並木千柳(なみきせんりゅう)、初代、二代目竹田出雲(たけだいずも)らとともに、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』という義太夫狂言の三大名作を作り上げた竹本座の作者のひとりです。前身は四国伊予の真言宗の寺の僧であったとも医者であったともいわれていますが、生没年とともに詳しいことはわかりません。
近松門左衛門亡き後、人形浄瑠璃も歌舞伎も何幕も続く長い作品が主流となり、筋立ても複雑になってきたところから、一つの作品を複数の作者が分担して書く“合作(がっさく)”という手法がとられるようになりました。三好松洛の名前が合作者のひとりとして初めて表れるのは1736(元文1)年『赤松円心緑陣幕(あかまつえんしんみどりのじんまく)』です。それ以後も単独作はなく、立作者(複数の作者の中で主導的立場にある作者)として署名した作品もわずかに1742(寛保2)年の『花衣いろは縁起(はなごろもいろはえんぎ)』、1769(明和6)年の『中元噂掛鯛(ちゅうげんうわさのかけだい)』の2作ばかりですが、50作を越える作品に合作者のひとりとして三好松洛の名前が残されています。
立作者の地位は初代竹田出雲、文耕堂、並木千柳、二代目竹田出雲(小出雲)らに譲りながらも、竹本座の重鎮として活躍したことがうかがえます。その作品の中には、上記の三大名作以外にも『ひらかな盛衰記(ひらがなせいすいき)』や『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』など現在歌舞伎でも上演される多くの作品が含まれています。
長寿な人であったらしく、竹本座の合作者として活躍した期間は30年にも及び、晩年まで次世代にあたる近松半二らを指導、後見して支え続けました。
1771(明和8)年に上演された『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の正本の作者連名の最後に「後見行年七十六歳三好松洛」と見えるものがあることから、このころに亡くなったと考えられています。
【作風と逸話】
合作の場合、どの場面をどの作者が担当したのか確定することは難しいことです。三好松洛は構成に優れ、軽妙な言葉遊びに長けていたといわれます。言葉の響きやリズムで、その場面の雰囲気を作り、同音異義語を勘違いして受け取り、会話がずれていく面白味などに特徴がみられるといいます。
竹本座で『楠昔噺(くすのきむかしばなし)』が成功した当たり振る舞いの酒宴の席上で、作者たちが次の企画を話し合った際に、三好松洛の発案で天神様の一代記のなかに、“3組の親子”“生き別れと死に別れ”というテーマを盛り込もうということになりました。興の乗った初代竹田出雲、並木千柳と三好松洛が、くじでそれぞれの担当する場面を決めようということになり、そのくじ引きの結果生まれたのが、三好松洛の「道明寺」菅丞相と苅屋姫の別れ、並木千柳の「賀の祝」白太夫と桜丸の別れ、竹田出雲の「寺子屋」松王丸・千代と小太郎の別れの3つの別れ。もちろんこの作品は、名作『菅原伝授手習鑑』です。(飯塚美砂)
【代表的な作品】
赤松円心緑陣幕(あかまつえんしんみどりのじんまく) 1736(元文1)年2月
御所桜堀川夜討(ごしょざくらほりかわようち)1737(元文2)年1月
ひらかな盛衰記(ひらがなせいすいき) 1739(元文4)年4月
新薄雪物語(しんうすゆきものがたり) 1741(寛保1)5月
夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ) 1745(延享2)7月
楠昔噺(くすのきむかしばなし) 1746(延享3)年1月
菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ) 1746(延享3)8月
義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) 1747(延享4)11月
仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら) 1748(寛延1)年8月
双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 1749(寛延2)年 7月
源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 1749(寛延2)11月
【舞台写真】
『仮名手本忠臣蔵』十一段目 [左から]原郷右衛門元辰(大谷友右衛門)、大星由良之助良兼(松本幸四郎)、奥田定右衛門行高(澤村宗之助)、大星力弥良春(中村児太郎) 平成25年12月歌舞伎座