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つるやなんぼく 四代目鶴屋南北

人々がどんな刺激を欲しているかを知る達人

1755(宝暦5)~1829(文政12年)

【略歴 プロフィール】
『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』や『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』などで人気の高い狂言作者、四代目鶴屋南北は1755(宝暦5)年、江戸の中村座や市村座に近い乗物町の紺屋(染物屋)の型付職人の家に生れました。1776(安永5)年、初代桜田治助が立作者を勤めていた市村座で桜田兵蔵(さくらだひょうぞう)という名で見習い作者となり、その後沢兵蔵(さわひょうぞう)と名前を変え中村座や市村座に出勤した後、1782(天明2)年からは勝俵蔵(かつひょうぞう)を名乗り森田座に出勤します。長い間、狂言方(きょうげんかた。立作者の補助的立場にある二枚目、三枚目作者より下の雑務にあたる狂言作者)として貧乏生活を続けました。1803(享和3)年、50歳の時、河原崎座で上演された夏狂言の『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』が大評判となり、夏から晩秋に季節が移り寒さのため水中での立ち廻りができなくなるまでロングランとなります。南北はこのヒットによりようやく作者として認められるようになりました。南北という名前は、勝俵蔵が道化方の俳優三代目鶴屋南北の娘と結婚し婿に入っていたところから、義父の死後、四代目鶴屋南北と名乗ったことによります。これ以降、南北は俳優の名ではなく狂言作者の名となりました。長寿で最後まで現役を通し、1829(文政12)年11月、“一世一代”として『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』を著し、その公演中の27日に75歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
鶴屋南北が活躍したのは、江戸の町人文化が爛熟し尽くした化政年間でした。長く下積みの生活を送った南北は、市井の風俗や流行り言葉、最下層の人々の暮らしをよく知っており、舞台にすぐさま取り入れました。また初代尾上松助、五代目岩井半四郎、五代目松本幸四郎などの俳優のために個性を生かして当て書きをした作品を次々発表し、“色悪(いろあく)”や“悪婆(あくば)”といった役柄を生み出しています。そして世話物(江戸時代の現代劇)の中でも当時の生活をよりリアルに表現する生世話(きぜわ)というジャンルを発展させていきました。
また、歌舞伎では主幹のテーマとなる物語を“世界(せかい)”と呼びますが、南北はいくつかの世界を組み合わせる“綯交ぜ(ないまぜ)”という重層構造の作劇法を得意としました。退廃的な風潮の中で、人々がどんな刺激を欲しているかを敏感に感じ取り、殺人や猟奇的な事件、怪談話を盛り込み、早替わりや宙乗りなどの演出や様々な舞台機構を駆使し、より複雑な芝居を作り出してゆきました。

『天竺徳兵衛韓噺』では、主演の初代尾上松助が工夫を凝らし、早替わりにつぐ早替わりを見せ奮闘しましたが、それがあまりに速いのでバテレンの妖術を使っているのではないかという噂が立ち、奉行所からにお調べが入る騒ぎとなりました。もちろん妖術などあろうはずはなく、調べにあたった役人も仕掛けや工夫におおいに感心したということで、それがまた噂になり客を呼びました。これは南北が風評を利用して宣伝に利用したのだと言われています。『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』を上演した折には、中村座の櫓から女の生首が振袖をくわえている凧を揚げ、衆目を集めました。これらは南北が脚本の作者としてばかりでなく、宣伝プランナーとしても高い手腕を持っていたことをうかがわせています。
南北の芝居では劇中、葬式の場面が出ることが多く「棺桶が出たら南北の芝居と思えばよい」とまで言われましたが、自身が亡くなる時には、『寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)』という書物を弟子たちに残しました。これは自らの葬式の台本ともいうようなもので、弟子たちはこれをもとに南北の葬式を派手に執り行い、また刷り物にして会葬者に配っています。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし) 1804(文化1)年7月
四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま) 1804(文化1)年11月
彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし) 1808(文化5)年閏6月
時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう) 1808(文化5)年7月
貞操花鳥羽恋塚(みさおのはなとばのこいづか) 1809(文化6)年11月
心謎解色絲(こころのなぞとけたいろいと) 1810(文化7)年1月
勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ) 1810(文化7)年3月
絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ) 1810(文化7)年5月
當穐八幡祭(できあきはちまんまつり) 1810(文化7)年7月
謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ) 1811(文化8)年7月
於染久松色讀販(おそめひさまつうきなのよみうり) 1813(文化10)年3月
隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ) 1814(文化11)年3月
杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ) 1815(文化12)年5月
桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう) 1817(文化14)年3月
菊宴月白浪(きくのえんつきのしらなみ) 1821(文政4)年9月
霊験亀山鉾(れいげんかめやまぼこ) 1822(文政5)年7月
法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん) 1823(文政6)年6月
浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま) 1823(文政6)年3月
東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん) 1825(文政8)年7月
盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ) 1825(文政8)年9月
獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ) 1827(文政10)年6月
金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり) 1829(文政12)年11月

【舞台写真】
『東海道四谷怪談』[左から]佐藤与茂七(尾上菊之助)、民谷伊右衛門(市川染五郎) 平成25年7月歌舞伎座
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