1. 用語
  2. 作者人名録
  3. 三代目桜田治助

さくらだじすけ 三代目桜田治助

今も残る舞踊の名作の数々

1802(享和2)年~1877(明治10)年

【略歴 プロフィール】
三代目桜田治助は1802(享和2)年に江戸深川仲町で生まれ、1824(文政7)年に葛飾音助(かつしかおとすけ)と名乗って初出勤し、二世桜田治助の弟子となりました。その後松島半二(まつしまはんじ)等々に改名しますが、1833(天保4)年11月中村座で、三世桜田治助を襲名し、1835(天保6)年には立作者になります。時代物や所作事にも優れた名優四世中村歌右衛門と提携しておもに市村座の立作者として作品を生み出していきます。歌右衛門没後中村座の座付作者として活躍し、一時は森田座など他座の立作者も兼ねるほどでした。1862(文久2)年に弟子の木村園治に四世を継がせた後も立作者を勤めましたが、自らは初代より受け継いだ俳名を使い、狂言堂左交(きょうげんどうさこう)や桜田左交(さくらださこう)と名乗りました。明治に入ると実際に作品を執筆することは少なくなりましたが、劇界の古老として存在感を発揮しました。明治10年8月7日に76歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
作者としてかかわった作品は『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』をはじめとても多く、その数は200以上といわれていますが、改作ものが多かったようです。一方で浄瑠璃や長唄など音曲の作詞を得意にして、50以上も手掛けたといわれますが、その中には現在でもよく上演される多くの人気曲『乗合船恵方万歳』や『どんつく』などが含まれています。

中村座で立作者になっていた1838(天保9)年9月、三代目尾上菊五郎の怪我のために上演していた演目を急遽差し替えることになりました。話し合いの末、替わりの演目が決まったのは午前2時…。しかし当夜中に稽古をしなくては間に合わないので、まず左交(桜田治助)を始めとする狂言方が次の間で書抜(かきぬき)を作り、出来次第俳優に渡し、稽古を2回やったところで翌日の芝居の幕を開けました。その後も他の演目を上演しながら、幕間に差し替え演目の稽古を3日間続けた、と三代目中村仲蔵の『手前味噌』に書かれています。座付作者として芝居づくりの現場にいた様子が伝わってきます。(井川繭子)

【代表的な作品】
来宵蜘蛛絲(くべきよいくものいとすじ) 1837(天保8)年11月
花翫暦色所八景(はなごよみいろのしょわけ) 1839(天保10)年3月
乗合船恵方万歳(のりあいぶねえほうまんざい) 1843(天保14)年1月
神楽諷雲井曲毱(かぐらうたくもいのきょくまり)~どんつく 1846(弘化3)年1月
青砥稿(あおとぞうし) 1846(弘化3)年7月
新板越白浪(しんぱんこしのしらなみ) 1815(嘉永4)年9月
花〓台大和文庫(はなみどうやまとぶんこ) 1854(嘉永7)年3月
名高毛毬諷実録(なにたかしまりうたじつろく) 1855(安静2)年7月
三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう) 1857(安政4)年7月

※ 〓は、員へんに見

【舞台写真】
『乗合船恵方万歳』[左から]女船頭お浪(中村扇雀)、白酒売おふじ(片岡孝太郎)、才造亀吉(中村又五郎)、田舎侍(坂東彌十郎)、萬歳鶴太夫(中村梅玉)、芸者駒菊(中村児太郎)、通人杏雨(中村翫雀)、大工幸松(中村橋之助) 平成26年1月歌舞伎座
  1. 用語
  2. 作者人名録
  3. 三代目桜田治助