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せがわじょこう 三代目瀬川如皐

お富与三郎の生みの親

1806(文化3)年〜1881(明治14)年

【略歴 プロフィール】
日本橋本町四丁目に生まれた三代目瀬川如皐は、本名吉兵衛といい、葉茶屋(茶の葉を売る店)を営んでいた実父は呉服店の支配人、養父も同じ店の通い番頭でした。養父の縁で幼少の頃には四代目鶴屋南北とも交流があったといいます。大変に芝居が好きで暇さえあれば芝居小屋を覗くなど、何とかして作者になりたいと思っていました。一旦は呉服の行商人となりますが、芝居への思いを捨てきれず五代目鶴屋南北のもとへ弟子入りして、仕事のかたわら作品を書いては添削してもらっていました。やがてそれが高じて作者となり、その前職に因んで絞吉平(しぼりきちべい)と名乗ります。1840(天保11)年には三代目姥尉輔(うばじょうすけ)を襲名、1844(天保15)年には藤本吉兵衛と改名します。1846(弘化3)年に三代目桜田治助とともに『青砥稿(あおとぞうし)』を発表するとこれが大当たりし、四代目中村歌右衛門の引き立てもあって、1848(嘉永1)年に中村座の立作者になります。1850(嘉永3)年には三代目瀬川如皐を襲名し、この年から四代目市川小團次と提携して手掛けた『東山桜荘子(ひがしやまさくらぞうし)』『与話情浮世横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』は彼の代表作となりました。『東山桜壮子』は現在では「佐倉義民伝」の通称で知られていますが、当時の観客には珍しく農民を主人公としており、重税にあえぐ村を救うため将軍直訴に及んだ佐倉の名主木内宗五郎(初演時の役名は浅倉当吾)を描いた作品です。「木綿芝居」として座本らに反対されましたが、ケレンや怨霊譚を盛り込んだ小團次の熱演もあって大ヒットロングランした画期的な作品です。
しかしその後、小團次が二代目河竹新七(のちの黙阿弥)と提携するようになると、次第に活躍の場も少なくなっていきました。晩年の様子はよくわかっていませんが、明治に入ってからも横浜港座に招かれて『近世開港魁(きんせいみなとのさきがけ)』を執筆し、1881(明治14)年6月28日75歳で没しました。

【作風と逸話】
如皐の出世作といわれる『青砥稿』は、当時まだ二枚目作者の地位であった如皐が立作者の桜田治助に代わって作品の立案をしたともいいます。このことからも作品の筋立てを考える着想力に優れ、その才能を同時代の俳優たちにも高く評価されて順調に出世していったことがうかがえます。特に四代目小團次との提携時代には、その創作意欲を発揮して数々の名作を執筆しました。一時は同じ五代目南北の弟子で、如皐より先に作者の世界に入り立作者となっていた10歳年下の二代目河竹新七(のちの黙阿弥)よりも実力を認められていたようです。その一方で如皐の作風は、戯曲としてはやや緻密過ぎるとの指摘もされています。これは几帳面な彼の性格もありますが、当時流行していた合巻などの小説を多数執筆していた影響もあるのではないかといわれています。

読みづらい台帳(台本)の文字には読み仮名を振り、当時狂言作者が担当した芝居の絵看板の下絵にもまるで設計図のように細かく指示を書き込むなど、大変綿密な仕事ぶりだったようです。台本も字が細かく量も多いので、演じる俳優たちも苦労したという話があります。俳優の希望に応じて書き直すことにはなかなか応じなかったようで、昔気質で頑固な一面も伝わっています。自宅はいつも完璧に掃除が行き届いていて、お使いにきた見習いの狂言作者などが、うっかり泥のついた下駄で玄関先へ踏み込もうとしようものなら、たちまち「おいおい、そんな下駄ではいっちゃいけねえ」と怒鳴られた、と狂言作者の竹柴其水の談にもありますから、やや潔癖症なところもあったようです。(井川繭子)

【代表的な作品】
青砥稿(あおとぞうし) 1846(弘化3)年7月 ※立作者は三代目桜田治助
勢獅子劇場花罾(きおいじしかぶきのはなかご) 1851(嘉永4)年5月
東山桜荘子(ひがしやまさくらぞうし) 1851(嘉永4)年8月
与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし) 1853(嘉永6)年3月
増補双級巴(ぞうほふたつどもえ) 1861(文久1)年10月
蟒於由曙評仇討(うわばみおよしうわさのあだうち) 1866(慶応2)年1月
近世開港魁(きんせいみなとのさきがけ) 1874(明治7)年7月

【初代瀬川如皐と二代目瀬川如皐】
三代目の先々代となる初代瀬川如皐は1739(元文4)年に生まれ、上方の女形の役者でしたが江戸に下り、その後作者に転向しました。『狂乱雲井袖~仲蔵狂乱(きょうらんくもいのそで~なかぞうきょうらん)』『春昔由縁英~羽根の禿(はるはむかしゆかりのはなぶさ~はねのかむろ)』などを作り、1794(寛政6)年に亡くなっています。
また二代目瀬川如皐は1757(宝暦7)年江戸生まれ、1801(享和1)年に二代目を襲名しました。博識で知られ『拙筆力七以呂波~傾城(にじりがきななついろは~けいせい)、供奴(ともやっこ)』『弥生の花浅草祭~三社祭(やよいのはなあさくさまつり~さんじゃまつり)』など変化舞踊に名を残しています。1833(天保4)年に亡くなりました。

【舞台写真】
『与話情浮名横櫛』[左から]切られ与三郎(市川染五郎)、妾お富(中村福助)、和泉屋多左衛門(中村歌六) 平成22年1月歌舞伎座
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