師である黙阿弥の作風を継承した明治期の狂言作者
1842(天保13)年 ~ 1901(明治34)年1月10日【略歴 プロフィール】
本名は菊川金太郎(きくかわきんたろう)といい、江戸神田に生まれました。浅草で奉公するうちに河竹黙阿弥(当時、二代目河竹新七)の芝居を見て感激し、『花江都歌舞妓年代記続編(はなのえどかぶきねんだいきぞくへん)』を著した考証家の石塚豊芥子(いしづかほうかいし)の紹介により黙阿弥に弟子入りして、狂言作者の修業を始めます。1857(安政4)年市村座で初世竹柴金作と名乗り、1872(明治5)年1月中村座で立作者となって、1884(明治17)年4月新富座で黙阿弥の前名河竹新七を三代目として襲名します。市村座や歌舞伎座で立作者を勤め、『橋供養梵字文覚(はしくようぼんじのもんがく)』『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』など九代目市川團十郎、初代市川左團次らの出演作を次々と手掛けました。中でも五代目尾上菊五郎のために『塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき)』『怪異談牡丹燈籠(かいだんぼたんどうろう)』などの当り狂言を執筆し、『羽衣(はごろも)』『小坂部(おさかべ)』などの舞踊作品は1887(明治20)年より菊五郎が制定した新古演劇十種の内に数えられています。1901(明治34)年1月10日に60歳で亡くなりました。
【作風と逸話】
機知に富み趣向の才があり、踊りの当て振りにも妙を得ていたという三代目新七は、大変な速筆だったそうですが、師である黙阿弥の作風をよく継承した狂言作者でした。洒脱な作風で、主に世話物を得意としましたが、時代物や所作事なども手掛け、80作余りの作品を残しています。その多くが草双紙などの小説や講談、人情話からの脚色作で、当時人気のあった噺家三遊亭圓朝の噺を最も多く脚色したのは、三代目新七だといわれています。
1884(明治17)年7月市村座初演の『東叡山農夫願書(とうえいざんのうふのねがいしょ)』を書いたとき、新七は作品のモデルとなっている佐倉惣五郎についてその史実を確かめようと、漢学者で森鴎外の師である依田学海(よだがっかい)を訪ねたことが、学海の日記に記されています。この時代は演劇改良運動が盛んで、歌舞伎も歴史劇として史実に基づいたものを上演することが求められていました。敬愛する師匠の名跡を襲名したばかりの新七が、狂言作者として真摯に劇作に取り組もうとする様子が伝わってきます。(井川繭子)
【代表的な作品】
通俗西遊記(つうぞくさいゆうき) 1878(明治11)年9月
嵯峨奥妖猫奇談(さがのおくようみょうきだん) 1880(明治13)年10月
橋供養梵字文覚(はしくようぼんじのもんがく) 1883(明治16)年5月
籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ) 1888(明治21)年5月
蔦模様血染御書(つたもようちぞめのごしゅいん) 1889(明治22)年11月
塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき) 1892(明治25)年1月
怪異談牡丹燈籠(かいだんぼたんどうろう) 1892(明治25)年7月
清正誠忠録(きよまさせいちゅうろく) 1894(明治27)年3月
羽衣(はごろも) 1898(明治31)年1月
江戸育御祭佐七(えどそだちおまつりさしち) 1898(明治31)年5月
闇梅百物語(やみのうめひゃくものがたり)~小坂部(おさかべ) 1900(明治33)年1月
【舞台写真】
『籠釣瓶花街酔醒』[左から]佐野次郎左衛門(中村吉右衛門)、兵庫屋八ツ橋(尾上菊之助)平成28年2月歌舞伎座