ふくちおうち 福地桜痴

演劇改良運動に邁進し歌舞伎座を作った明治演劇界の功労者

1841(天保12)年3月23日~1906(明治39)年1月4日

【略歴 プロフィール】
医師福地源輔(げんすけ)の子として長崎に生まれ、本名は源一郎といいます。幼い頃から神童といわれるほど優秀で漢学・蘭学を学び、18歳のとき江戸に出て英語を学び幕府の通訳・翻訳の仕事に就き、翌年幕臣に取り立てられ、1861(文久1)年に幕府遣欧使節に随行して洋行します。帰国後は官吏として働きますが、1874(明治7)年官職を辞して新聞事業に従事、東京日日新聞の社長に就任して新聞界の第一人者と称されます。また、東京府議会議長など政治家としても活躍し、当時は上野の下谷に住み高給を受けていたため、“池の端の御前(いけのはたのごぜん)”といわれるほど豪奢な生活を送りました。しかし新聞社からの引退を機に劇界に転身、日本に於ける演劇改良の意見を発表し、その実現のための第一歩として出資者の千葉勝五郎(ちばかつごろう)と共に、1889(明治22)年東京の歌舞伎座を創立し共同で座主(ざぬし)となります。その後座主権を千葉に譲った桜痴は、歌舞伎作者としての活動を開始します。演劇改良に意欲的だった九代目市川團十郎のために、『春日局(かすがのつぼね)』などの活歴劇(かつれきげき)、新歌舞伎十八番の『春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)』『素襖落(すおうおとし)』などの舞踊劇を書きました。1897(明治30)年4月には立作者となり、『侠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)』を書き、名実ともに劇壇の大御所となります。1903(明治36)年に團十郎が亡くなると桜痴も作品の発表を止め、1906(明治39)年1月4日に亡くなりました。

【作風と逸話】
桜痴は歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして提唱された演劇改良運動の推進者でした。彼は生涯に4度の外遊経験を経て、新聞界や演劇界への関心を持つようになったといわれていますが、歌舞伎座の座付作者として執筆したその作品は、当時の観客や評論家たちに難解だとか高尚趣味などと批評されました。しかし、実際に洋行先で目の当たりにした西欧諸国の演劇にならい、歌舞伎の社会的地位を向上させ、劇場を上流階級の社交の場にしようと尽力したことは彼の最大の功績といえるでしょう。彼の作品は50数篇に及びますが、その中には新歌舞伎十八番に数えられている舞踊劇の他に、近松門左衛門の原作を改作した改修物や外国作品を翻案した翻案物なども含まれています。また、リットンの『マネー』(人間万事金世中)など河竹黙阿弥や三遊亭円朝に翻案物の題材を提供しました。

1878(明治11)年6月、場内の照明にガス灯を用いるなど洋式劇場の設備を備えた新富座が新装開場しました。開場式には陸海軍の音楽隊が洋楽を演奏し、外国からの賓客や名士が招かれ俳優たちをはじめ関係者が洋装で居並ぶ中、一同を代表して九代目市川團十郎が祝辞を述べましたが、その原稿は桜痴が書いたものでした。その翌年7月に元アメリカ大統領グラント将軍が来日した際には、渋沢栄一と共に接待委員長に就任し、新富座で観劇会を催しました。もてなしに感銘を受けた将軍からは、その返礼として引幕と書簡を贈られています。(井川繭子)

【代表的な作品】
武勇誉出世景清(ぶゆうのほまれしゅっせかげきよ) 1891(明治24)年3月
春日局(かすがのつぼね) 1891(明治24)年6月
舞扇恨之刃(まいおうぎうらみのやいば) 1891(明治24)年7月 ※トスカの翻案
新歌舞伎十八番の内 素襖落(すおうおとし) 1892(明治25)年10月
新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし) 1893(明治26)年3月
十二時会稽曽我(じゅうにときかいけいそが) 1893(明治26)年5月
二人袴(ににんばかま) 1894(明治27)年6月
侠客春雨傘(おとこだてはるさめがさ/きょうかくはるさめがさ) 1897(明治30)年4月
新歌舞伎十八番の内 大森彦七(おおもりひこしち) 1897(明治30)年10月
鵺退治(ぬえたいじ) 1899(明治32)年3月 ※『八陣守護城』序幕として上演

【舞台写真】
『春興鏡獅子』小姓弥生後に獅子の精(中村勘九郎) 平成24年2月新橋演舞場