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たけしばきすい 竹柴其水

江戸の遺風と黙阿弥作品を守った河竹家の大番頭

1847(弘化4)年 ~ 1923(大正12)年2月10日

【略歴 プロフィール】
竹柴其水は本名を岡田新蔵(おかだしんぞう)といい、1847(弘化4)年、江戸の大工の家に生まれ京橋の材木屋岡田屋へ養子に入りました。しかし、狂言作者を志し、三代目桜田治助に入門し熨斗進蔵(のししんぞう)と名乗ったのち、二代目河竹新七(黙阿弥)の門下となり、1873(明治6)年竹柴進三(たけしばしんぞう)となりました。1884(明治17)年新富座の立作者となり、1887(明治20)年に黙阿弥の俳名である竹柴其水を譲られます。1894(明治27)年には初代市川左團次が前年私財を投じて開場した明治座に移り、左團次のため『山田長政誉軍扇(やまだながまさほまれのぐんせん)』などの脚本を書きました。また黙阿弥には河竹家の跡継ぎである長女糸(いと)の後見人に指名され、黙阿弥の作品の管理に尽力しました。1909(明治42年)に立作者を退き、1923(大正12)年に77歳で亡くなっています。
明治期に入り、歌舞伎の作者は狂言作者から劇作家へと移っていきますが、其水は脚本も書けば筋書や絵看板の下絵も書き、芝居の進行も取り仕切る江戸の狂言作者の伝統を受け継いだ最後の世代と言われています。

【作風と逸話】
初期の作品には師匠河竹黙阿弥の影響を受けた作品が多く、江戸っ子らしく台詞には軽妙洒脱さが感じられます。また一方、『皐月晴上野朝風(さつきばれうえののあさかぜ)』で上野の戦争を、『会津産明治組重(あいづさんめいじのくみじゅう)』で日清戦争を題材に選ぶなど時流の変化を庶民感覚でとらえた作品や、『遠山桜天保日記(とおやまざくらてんぽうにっき)』のように近代的な推理による犯人捜しの趣を加えた作品もあり、この頃多く作られた松羽目ものも書いています。彼もまた明治という新しい時代を生きた狂言作者でした。

三十数人いたという河竹黙阿弥の弟子のなかでも、黙阿弥から名前を譲られた数少ない存在であり、黙阿弥が娘糸の後見に指名したことからその真面目な人柄と信頼の厚さが伺えます。新しもの好きでもあり、ハイカラな洋装を好んだようです。
黙阿弥は1887(明治20)年に制定された著作権法の前身である版権条例を受けて、著作作品の版権登録を進めていましたが、その作業を手伝っていたのは其水でした。黙阿弥の死後8年たった1901(明治34)年、深川座が『弁天小僧』を無断で上演したことから、日本で初めての著作権にかかわる裁判が行われることとなりましたが、糸の代人として書類を整え実務一切を取り仕切ったのはこの其水だったと、黙阿弥の曽孫にあたる河竹登志夫が、黙阿弥没後の河竹家の様子を記した『作者の家』のなかで述べています。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
那智滝祈誓文覚(なちのたきちかいのもんがく) 1889(明治22)年6月
神明恵和合取組~め組の喧嘩(かみのめぐみわごうのとりくみ~めぐみのけんか) 1890(明治23)年3月
皐月晴上野朝風(さつきばれうえののあさかぜ) 1890(明治23)年5月
遠山桜天保日記(とおやまざくらてんぽうにっき) 1893(明治26)11月
三人片輪(さんにんかたわ) 1898(明治31)年10月
墨塗女(すみぬりおんな) 1907(明治40)3月

【舞台写真】
『神明恵和合取組』[左から]め組浜松町辰五郎(尾上菊五郎)、江戸座喜太郎(坂東彦三郎)、四ツ車大八(市川左團次) 平成27年5月歌舞伎座
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