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まついしょうおう(しょうよう) 松居松翁(松葉)

膨大な量の脚本を書き、新歌舞伎へ観客をいざなった脚本家

1870(明治3)年2月18日~1933(昭和8)年7月14日

【略歴 プロフィール】
松居松翁は本名を松井真玄(まさはる)といい、1870(明治3)年2月18日に仙台藩士の子として宮城県の塩釜に生まれました。仙台中学を中退して上京し専修学校、国民英学会で学んだあと文学を志し、坪内逍遥主宰の「早稲田文学」の編集に創刊から加わります。はじめ、松葉(しょうよう)を名乗り、1924(大正13)年からは松翁(しょうおう)と改めます。1894(明治27)年、初めての戯曲『昇旭朝鮮太平記(のぼるあさひちょうせんたいへいき)』を読売新聞に発表し、翌年から中央新聞や報知新聞、万朝報の記者として劇評を書いていきます。1899(明治32)年、初代市川左團次のために『悪源太(あくげんた)』を書き、明治座で上演されましたが、これは明治以降に幕内の狂言作者でない作者が脚本を書いて上演された初めての作品といわれています。1904(明治37)年に左團次が没すると、その長男でのちに二代目左團次となる二代目市川莚升(えんしょう)の売り出しに尽力し、また明治座の相談役となり興行改革を進めようとしましたがこちらはうまくゆかず辞職します。その後、帝国劇場に勤めたのち、松竹の文芸顧問として脚本だけでなく演出家としても辣腕を振るいました。生涯に二度、欧米視察に出かけ、海外の新しい演出法や興行法に刺激を受けています。その際、当時若手の俳優たち、二代目左團次やのちに初代市川猿翁となる二代目市川猿之助なども同行し、その後の歌舞伎界にも少なからぬ影響を与えました。舞台照明の効果に注目したり、歌舞伎の舞台装置に洋画家を起用したのも松翁です。大正期には新派の河合武雄と共に“公衆劇団”を創立しロビンソンの「収穫」の翻案『茶を作る家』を上演、新派をはなれて新劇の普及にも努めました。著書に『団洲百話』『劇壇今昔』などがあります。1933(昭和8)年、糖尿病を悪化させ亡くなっています。

【作風と逸話】
非常にエネルギッシュで、昭和初期には、彼の作品が上演されない月はないというほどの速筆多作でした。最終的な数ではないにしても書いた脚本は140余、上演されたものは90余と自身で言っています。その内容は、史劇、世話物、所作事、時事ネタものと多方面にわたり、劇界の近代化が進もうとしている時期にあって、理解しやすい言葉で心情に訴え、時代が求める演劇を提供し続けました。翻訳物、翻案物が多いのはよく知られていて、「松葉先生の脚本を外国語に直せば元の脚本に戻る」とも言われたようですが、渡米した際に現地の劇場で観た新作の芝居や読んだ戯曲を原作として書き換えたものには、骨子は参考にしながらも、日本の習慣や庶民の心情を考慮して原作とは大きく違う内容の作品になっているものも多く見受けられます。

外国の原作を翻訳して上演する際には、その語学力を生かして作者に英語やドイツ語で自ら手紙を書き、上演許可を求め、時には、この場面はどう解釈したらよいのかという疑問点を問い合わせるという生真面目な面ももっていました。長時間にわたる舞台稽古に演出家として立ち合い、意に染まぬことがあると大雷を落とす激情家でしたが、翌日にはその雷を落とした相手に言葉をかけ、悪意のないことを説明するなど、神経のこまやかなところもあったようです。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
悪源太(あくげんた) 1899(明治32)年10月
袈裟と盛遠(けさともりとお) 1908(明治41)年1月
淀君(よどぎみ) 1918(大正7)年11月
政子と頼朝(まさことよりとも) 1924(大正13)年6月

【舞台写真】
『岩倉具視』岩倉具視(二代目市川左團次) 昭和8年4月歌舞伎座
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