つぼうちしょうよう 坪内逍遙

大学での講義はいつもにぎやかで…、さながら芝居そのもの

1859(安政6)年5月22日~1935(昭和10)年2月28日

【略歴 プロフィール】
坪内逍遙、本名坪内雄蔵(つぼうちゆうぞう)は、1859(安政6)年5月22日に美濃国加茂郡太田宿、現在の岐阜県美濃加茂市に生まれました。父は尾張藩代官所の役人でしたが、一家で1869(明治2)年に名古屋へ移住、愛知英語学校で学んだのち、1876(明治9)年に上京して開成高校(のちの東京大学)へ入り、卒業後は東京専門学校(のちの早稲田大学)講師となります。講義の傍ら戯曲を翻訳して刊行し、また1885(明治18)年には日本初の文学論といわれる『小説神髄(しょうせつしんずい)』を著し、その実践作として小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』を発表して注目を集めました。しかしその後小説を断念して演劇の革新を志し、シェイクスピア及び近松門左衛門の研究を始めます。1893(明治26)年には「早稲田文学」に史劇論『我が邦の史劇』を発表、その実践例として『桐一葉(きりひとは)』『牧の方(まきのかた)』『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』など、後に新歌舞伎といわれる作品を執筆しました。また1904(明治37)年国劇改良の方策として新舞踊劇運動を興し、『新楽劇論(しんがくげきろん)』を著して、舞踊劇『新曲浦島(しんきょくうらしま)』を発表しました。1909(明治42)年には文芸協会の会長となり自宅に演劇研究所を開設、自ら指導にあたり、各地で公演を行います。1915(大正4)年に早稲田大学教授を退職した後は執筆・研究に専念し、シェイクスピア作品の全訳や、ページェント(野外劇)、児童劇などを手掛けました。晩年は熱海の双柿舎(そうししゃ)に住み、1933(昭和8)年よりシェイクスピアの現代語訳を目指して「新修シェイクスピア全集」全40巻の改訳に取り組みました。1935(昭和10)年に76歳で亡くなりました。(井川繭子)

【作風と逸話】
逍遙が11歳のとき一家で移り住んだ名古屋では、芝居好きだった母と姉の影響で、市内の芝居小屋へよく通いました。また貸本屋大惣(だいそう)こと大野屋惣八へ入り浸って、江戸の書物を耽読します。この経験がのちの歌舞伎研究や創作の基礎となったといわれています。
近代史劇の先駆者と呼ばれる逍遙ですが、その作品には歌舞伎の舞台技法が多く用いられています。また舞踊劇の大作『新曲浦島』は発表当時、その壮大な構想と詞章の美しさが高く評価され、演劇界のみならず広く世間から注目を集めました。

大学での逍遙の講義はいつもにぎやかで派手だったそうで、講談を聞くに等しい、さながら芝居そのもの、といった様子で、身振り手振りを交えて熱っぽく語っていたそうです。また時には歌舞伎俳優の声色を聞かせたり、自身で訳したシェイクスピア劇や自作の史劇を朗読するのも得意でした。学生たちや周囲の人々は、芝居気たっぷりなその話に引き込まれて、逍遙の説く演劇に魅了されていったことでしょう。(井川繭子)

【代表的な作品】
桐一葉(きりひとは) 1904(明治37)年3月
牧の方(まきのかた) 1905(明治38)年5月
沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ) 1905(明治38)年5月
新曲浦島(しんきょくうらしま)序の幕 1907(明治40)年11月
お夏狂乱(おなつきょうらん) 1914(大正3)年9月
良寛と子守(りょうかんとこもり) 1929(昭和4)年6月

【舞台写真】
『沓手鳥孤城落月』[左から]豊臣秀頼(中村七之助)、淀の方(坂東玉三郎) 平成29年10月歌舞伎座