やまざきしこう 山崎紫紅

詩情あふれる作風で人気を博した史劇作家

1875(明治8)年3月3日~1939(昭和14)年12月22日

【略歴 プロフィール】
本名は山崎小三(やまざきこぞう)といい、1875(明治8)年に横浜で生まれました。若い頃から文学を志し、雑誌「明星」に詩や評論を寄稿、詩集も出版するなど早くから詩人として活躍します。1905(明治38)年同誌の4月号に初めて発表した戯曲『上杉謙信(うえすぎけんしん)』がその月の28日より真砂座で新派の伊井蓉峰一座によって上演され好評を博します。以降は劇作に専念するようになり、明治39年9月にはそれまでの作品を収めた戯曲集「七つ桔梗」を出版しています。1908(明治41)年3月明治座で、演劇革新運動を掲げる二代目市川左團次が主演した『歌舞伎物語(かぶきものがたり)』は、三幕目の清水寺舞台の場で明るい照明を浴びた油絵風の遠景が展開するという斬新な舞台装置の評判もあって、これを見ざるものは劇を語る資格なしとまで絶賛されました。以後次々と歴史的事実を題材とした作品を発表し、1909(明治42)年6月には戯曲集「史劇十二曲」を出版しました。史劇作家の第一人者としての評価はますます上がり、1911(明治44)年3月の帝国劇場初開場用の懸賞脚本に当選、第一回公演で『頼朝(よりとも)』が上演されます。大正期に入ると、二代目市川左團次のために『平相国(へいしょうこく)』『松永弾正(まつながだんじょう)』、十一代目片岡仁左衛門のために『千利休(せんのりきゅう)』、そして五代目中村歌右衛門のために『初白髪(はつしらが)』などの作品を書き下ろしました。
1923(大正12)年の関東大震災以降は劇壇を離れて政財界で活躍し、神奈川県県会議長など数々の要職を歴任しました。昭和に入ってから、市川三升(没後、十代目市川團十郎の名跡を追贈)の歌舞伎十八番復活上演に際しては、脚本の補綴などを手掛けました。1939(昭和14)年12月22日横浜市の自宅で65歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
新進の史劇作家として劇壇に打って出た紫紅ですが、もともとは当時の活歴への批判から史劇の創作に入ったといわれています。戯曲集「史劇十二曲」の献辞には「坪内雄蔵先生へ捧ぐ」とあるように、坪内逍遥を深く尊敬しその影響を受けましたが、人物の性格や内面をより大衆に受入れられやすい手法で書きました。歴史に題材をとりながら、恋愛を主なテーマとして描き、若さと躍動感あふれる自由で新鮮な舞台は、新しい史劇として歓迎されました。また、当時の浪漫主義全盛時代に詩人としてデビューしただけに、彼の戯曲は詩情豊かで、歌舞伎や新派の名優によってその詩のような台詞が語られると得も言われぬ舞台効果を生みました。史劇の魅力を新しい切り口でみせた作品は、西洋的近代思想の影響を受けた当時の社会や文壇にも支持されて、その後の新歌舞伎作品にも大きな影響を与えました。

六尺(約180cm)にもなる長身であった紫紅は、月に何度も劇場に足を運び、熱心に芝居を見ていたそうです。各劇場の幕内でも幕外でも広く知られた人格者で、彼を悪く言う人はひとりもいませんでした。また大変な酒豪として有名で、劇場のロビーなどで会うとよく、「ビール飲みにいきませう」と誘われた、と演劇評論家で編集者だった安部豊が、「演芸画報」に寄せた追悼文の中で語っています。(井川繭子)

【代表的な作品】
上杉謙信(うえすぎけんしん) 1905(明治38)年5月 ※新派
歌舞伎物語(かぶきものがたり) 1908(明治41)年3月
頼朝(よりとも) 1911(明治44)年3月
平相国(へいしょうこく) 1916(大正5)年11月
千利休(せんのりきゅう) 1917(大正6)年3月
松永弾正(まつながだんじょう) 1918(大正7)年2月
初白髪(はつしらが) 1922(大正11)年2月
歌舞伎十八番の内 解脱(げだつ) 1932(昭和7)年11月 ※復活上演脚本
歌舞伎十八番の内 象引(ぞうひき) 1933(昭和8)年10月 ※復活上演脚本
歌舞伎十八番の内 嫐(うわなり) 1936(昭和11)年4月 ※復活上演脚本
歌舞伎十八番の内 七つ面(ななつめん) 1936(昭和11)年5月 ※復活上演補綴
春日龍神(かすがりゅうじん) 1937(昭和12)年1月

【舞台写真】
『歌舞伎物語』結城秀康(二代目市川左團次) 昭和9年1月歌舞伎座