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ぬかだむつとみ(ろっぷく) 額田六福

毎月のように作品が上演され、新歌舞伎を世に定着させた岡本綺堂の高弟

1890(明治23)年10月2日~1948(昭和23)年12月21日

【略歴 プロフィール】
1890(明治23)年、岡山県勝間田町の地主で質屋の家に生まれた額田六福は、早くに父を失いました。また17歳で結核性脊椎炎により右手首を失いますが、その療養中に文筆を志します。そのころ、明治の劇界改革の風潮から生まれた“新歌舞伎”というジャンルが毎月のように上演され商業ベースに乗るようになると、その脚本供給のために各劇場や興行会社は演じる俳優にあてがきした懸賞脚本を募るようになります。六福も二代目市川左團次のための脚本募集に応募しますが落選、その選者の一人であった岡本綺堂に書簡で指導を乞うようになります。1916(大正5)年、上京し正式に岡本綺堂の門下に入り早稲田大学に入学します。その年に雑誌「新演芸」の脚本募集に応募した『出陣(しゅつじん)』が入選し、すぐさま1917(大正6)年1月歌舞伎座で上演され、また続いて帝劇女優の為の懸賞脚本でも『月光の下に(げっこうのもとに)』という作品が入選、これが機となりプロの脚本家としての道が開けました。主に大正期を中心に多くの作品を書き、そのほとんどが発表されてすぐ劇場で上演されています。綺堂主宰の演劇雑誌「舞台」の編集にも当たり、1939(昭和14)年に綺堂が没してからは、彼に代わって「舞台」の主宰となりました。その後も後進の指導に当たっていましたが、脳出血を発症し、1948(昭和23)年に58才で亡くなりました。

【作風と逸話】
師の岡本綺堂には及ばぬものの、多作であり、その作品は歌舞伎、新派、新国劇などジャンルを問わず多くの劇団で毎月のように上演されたばかりでなく、映画化もされ、その時代の大衆に広く受け入れられました。1926(大正15)年1月、新国劇にエドモン・ロスタン原作『シラノ・ド・ベルジュラック』の翻案劇『白野弁十郎(しらのべんじゅうろう)』を書きますが、これは沢田正二郎主演で上演され新国劇の財産となりました。沢田正二郎とは仲が良かったらしく、彼の掲げた“半歩前進、大劇場主義(多くの観客を対象とした娯楽性と芸術性を兼ね備えた演劇)”に同調し、人々に受け入れられやすい抒情的台詞をちりばめた作品を多く発表しています。これは、いくつになっても少年のような純粋さを持ち続けていたという六福の性格にもよるところが大きかったようです。

額田六福は、多くの弟子を持っていた岡本綺堂の門下の中でも筆頭格の扱いで、綺堂とは家族同様の付き合いをしていました。上京したおりには下宿の面倒を師である綺堂に見てもらい、また、綺堂は関東大震災で焼け出された折には六福の家に仮住まいしています。綺堂の死後、六福は読売新聞に寄せた追悼談話で“自分にとって、天下にこれほど恐い先生はなく、また私にとって天下広しといえどもこれほど優しい慈愛深かった人もいない、先生は師であるとともに慈父であった”ということを述べています。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
出陣(しゅつじん) 1917(大正6)年1月
寛永遺聞(かんえいいぶん) 1922(大正11)年2月
冬木心中(ふゆきしんじゅう) 1922(大正11)年4月
真如(しんにょ) 1922(大正11)年10月
白野弁十郎(しらのべんじゅうろう) 1926(大正15)年1月 ※新国劇
大岡越前守と天一坊(おおおかえちぜんのかみとてんいちぼう) 1930(昭和5)年10月

【舞台写真】
『大岡越前守と天一坊』天一坊(十四代目守田勘弥) 昭和39年3月歌舞伎座
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