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はせがわしん 長谷川伸

様々なジャンルで演じ続けられ愛される股旅物の生みの親

1884(明治17)年3月15日~1963(昭和38)年6月11日

【略歴 プロフィール】
長谷川伸は本名を長谷川伸二郎といい、1884(明治17)年横浜に生まれました。祖父の兄は横浜開港時に土木請負業で財をなした人でしたが、家を継いだ父の代に没落して一家離散、伸も小学校を退学し、以後、横浜港のドックの雑用や使い走りなどをして生活します。働きながら、拾った新聞のルビを読んで独学で字を覚えたといいます。劇評の投稿欄に応募したことが縁となり、小さな業界新聞社に雑用係で入社します。その後、兵役を経ていくつかの新聞社に勤務し、1911(明治44)年から東京に出て都新聞につとめるかたわら、いくつものペンネームを使い分けて小説も書きますが、1924(大正13)年からは主に“長谷川伸”を名乗り、翌年、都新聞を退社して文筆生活に入りました。1928(昭和3)年、村松梢風の主催する個人誌「騒人」に寄稿した戯曲『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』を新国劇の沢田正二郎が上演して大評判となったことから、小説だけでなく劇作家としても名を馳せます。『瞼の母(まぶたのはは)』『一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)』など渡世人を主人公とする作品は一世を風靡し、様々な芝居で上演されるばかりでなく幾度も映画化され、現在も広く愛されています。後進の育成にも熱心で、門下からは村上元三、山岡荘八、池波正太郎、平岩弓枝など数多くの作家を輩出しています。死後は遺言によりその遺産と著作権を基に財団法人新鷹会(しんようかい)が設立され、1966(昭和41)年よりはその事業の一つとして長谷川伸賞を設け、演劇、評論などを対象に、世間にあまり知られてない人や価値ある活動を発掘し顕彰しています。

【作風と逸話】
長谷川伸は、恵まれたとは言えない生い立ちによる経験から、市井の底辺にありながら義理と人情を重んじる人々の心情を生き生きと描きました。なかでも流れ者の侠客や博徒を主人公にした作品には、一途に信念や愛情を貫こうとするストイックで近代的な人間像が描かれています。それらは人気作のひとつ『股旅草鞋(またたびわらじ)』からとって“股旅物(またたびもの)”と呼ばれ、ひとつのジャンルとして認められるようになりました。また彼の戯曲の大半は、俳優や劇場など演劇制作者の側から依頼されて書かれたものではありませんが、雑誌に発表されると歌舞伎や、新国劇、新派や新劇、大衆演劇などで取り上げられ競うように上演されました。十三代目守田勘弥や六代目尾上菊五郎、十七代目中村勘三郎をはじめとして多くの名優が長谷川伸の作品から当たり役を生み出しています。同じ作品が分野の違う演劇でひろく上演され、映画にまでなっているのも珍しいことです。

兵役についている間、長谷川伸が愛読していたのは兄が毎号差し入れてくれた雑誌「ホトトギス」と「歌舞伎」でした。のちに脚本を書くようになれたのも「歌舞伎」のおかげだろうと自伝的随筆『ある市井の徒』の中で述べています。
また伸の母は、彼が3歳の時に放埓な父に対して身を引くように幼い兄弟を残して家を出ました。名作『瞼の母』は主人公の番場(ばんば)の忠太郎が身を博徒に落としながらも、生き別れた母を慕いその行方を気にかける心情が細やかに描かれていますが、これは伸自身の原体験でもあったといわれています。『瞼の母』が発表された2年後の1933(昭和8)年、50歳になった伸は再婚していた生母の家を訪ね再会を果たしますが、それはこの芝居のような切ないものではなく、母にも異父弟らにも温かく迎えられた幸せな再会でした。この再会は新聞社によりスクープされ話題となり、とうとう帝国ホテルで「再会記念の会」まで開かれることとなりました。この後、伸は実母の心情を思いやって『瞼の母』の上演を彼女が亡くなるまで差し止めています。(飯塚美砂)

【代表的な作品】
掏摸の家(すりのいえ) 1928(昭和3)年4月 ※新国劇
沓掛時次郎(くつかけときじろう) 1928(昭和3)年12月 ※新国劇
股旅草鞋(またたびわらじ) 1929(昭和4)年5月
関の弥太ッぺ(せきのやたっぺ) 1929(昭和4)年8月
瞼の母(まぶたのはは) 1931(昭和6)年3月
雪の渡り鳥(ゆきのわたりどり) 1931(昭和6)年4月
一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり) 1931(昭和6)年7月
刺青奇偶(いれずみちょうはん) 1932(昭和7)6月
暗闇の丑松(くらやみのうしまつ) 1934(昭和9)6月
檻(おり) 1937(昭和12)年7月

【舞台写真】
『一本刀土俵入』駒形茂兵衛(松本幸四郎) 平成27年1月歌舞伎座
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