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みしまゆきお 三島由紀夫

昭和にうまれた絢爛たる古典風歌舞伎

1925(大正14)年1月14日~1970(昭和45)年11月25日

【略歴 プロフィール】
昭和を代表する文豪として海外でも知名度の高い三島由紀夫は、本名平岡公威(ひらおか きみたけ)といい、1925(大正14)年1月14日に東京で二代続く官吏の家に生まれました。学習院の中等科に進む頃から深く文学に傾倒し創作活動を始め、16歳の時に初めて三島由紀夫の筆名で、雑誌「文芸文化」に小説『花ざかりの森』が掲載されます。東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省勤めを経て、作家として『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』四部作など多くの小説を発表しました。同時に戯曲にも意欲を示し、能に取材した近代能楽集として『卒塔婆小町(そとばこまち)』『葵上(あおいのうえ)』ほか、『鹿鳴館(ろくめいかん)』、『サド侯爵夫人(さどこうしゃくふじん)』、江戸川乱歩の原作を脚色した『黒蜥蜴』などを発表しています。歌舞伎作品は1953(昭和28)年12月、松竹の依頼により芥川龍之介の短編を原作とした『地獄変(じごくへん)』を書いたのをはじめとして、6作品を舞台にのせています。古典歌舞伎の様式を模した華麗な作風は<三島歌舞伎>といわれ、新作の歌舞伎作品の中でも特異な輝きを放っています。さらに1959(昭和34)年11月には四世鶴屋南北作『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』の復活上演の台本監修を勤め、1966(昭和41)年に国立劇場が開場すると翌年非常勤理事にも就任しました。1970(昭和45)年、45歳で劇的な最期を遂げましたが、その前年の1969(昭和44)年11月、国立劇場において滝沢馬琴の長編小説『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』を劇化して書き下ろし、演出から美術、音楽にまでかかわって上演したのが、最後の歌舞伎の舞台の仕事となりました。

【作風と逸話】
三島由紀夫は、戦後の新作歌舞伎にみられる口語体の台詞や近代的な演出法ではなく、古典歌舞伎の様式、義太夫や下座音楽、文語体を使った古風な台詞回しなど擬古典風の修辞術を駆使して<三島歌舞伎>を作り上げました。また、初期の歌舞伎を思わせるおおらかな雰囲気のなかに、『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』の蛍火のように、大名の姫君が家を捨てて傾城に身を落としても恋人を探し求めるという、自分の意志で生きようとする新しいヒロインを登場させました。三島は、昭和を代表する女形六代目中村歌右衛門に心酔し、六作品のうち五つまでは歌右衛門が主要人物を演じることを想定して作品を執筆しました。そして残る一作品の『椿説弓張月』は、その存在自体が奇蹟だと評した当時まだ十代の若手女形、五代目坂東玉三郎をヒロインの白縫姫に想定して書かれています。俳優の個性を存分に生かし、新しい時代を感じさせる人物を配した作品には、古典歌舞伎の様式を用いて新しい歌舞伎劇を創出しようとする三島の作家としての姿勢が感じられます。

幼少のころ、芝居好きの祖母や母から聞く歌舞伎の話にあこがれを抱きながらも、教育上よろしくないという理由でなかなか連れて行ってもらえず、実際に歌舞伎座で歌舞伎を見ることができたのは、1938(昭和13)年10月満12才中学一年のときでした。その時『仮名手本忠臣蔵』を見た三島少年は、女形特有の声や演技を間近で見て呆気にとられながらも「なんともいへず不思議な味がある」と感じてそれ以来歌舞伎のとりことなり、劇場に通うようになります。1942(昭和17)年より1947(昭和22)年まで書き続けた詳細な観劇ノートは、1991(平成3)年に『芝居日記』として中央公論社から刊行されました。また終生六代目中村歌右衛門を贔屓にしたことでも知られ、1951(昭和26)年4月歌舞伎座の六代目歌右衛門襲名披露興行の際には筋書に文章を寄せ、1959(昭和34)年に出版された写真集『六世中村歌右衛門』では写真と文の編纂も担当して、11頁に及ぶ序文「六世中村歌右衛門序説」を記しています。(飯塚美砂)

【代表的な歌舞伎作品】
地獄変(じごくへん) 1953(昭和28)年12月
鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ) 1954(昭和29)年11月
熊野(ゆや) 1955(昭和30)年2月24~27日 ※莟会
芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじっき) 1955(昭和30)年11月
むすめごのみ帯取池(むすめごのみおびとりのいけ) 1958(昭和33)年11月
椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき) 1969(昭和44)年11月

【舞台写真】
『鰯賣戀曳網』[左から]鰯賣猿源氏(中村勘九郎)、傾城蛍火実は丹鶴城の姫(中村七之助) 平成26年10月歌舞伎座
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