うののぶお 宇野信夫

戦前戦後を通じて昭和の歌舞伎を創り上げた劇作家

1904(明治37)年7月7日 ~ 1991(平成3)年10月28日

【略歴 プロフィール】
本名は宇野信男といい、生まれは埼玉県本庄市ですが、生後まもなく一家は熊谷市に移り染物業を始めました。慶応義塾大学に進学するのを機に上京して、父親の会社の出張所がある浅草の橋場(はしば)に住み、1930(昭和5)年「三田文学」に『父親(ちちおや)』(のちに『俥(くるま)』と改題)を発表、卒業後1933(昭和8)年には「劇と評論」に『ひと夜(ひとよ)』を発表し築地座で上演されます。歌舞伎では1935(昭和10)年1月東京劇場で、『吹雪峠(ふぶきとうげ)』が二代目市川左團次らによって上演されたのがデビュー作となり、同年9月には歌舞伎座で、『巷談宵宮雨(こうだんよみやのあめ)』が六代目尾上菊五郎の主演で上演されると大当りし出世作となります。これを機に六代目菊五郎に認められて、以後十数年にわたり菊五郎のために作品を発表しますが、この頃についてのちに「六代目ほど私の作を理解し共鳴してくれる俳優を私は最早持つことは出来ないであろう」と述懐しています。古典の復活も多く手掛け、近松門左衛門生誕三百年にあたる1953(昭和28)年8月に新橋演舞場で『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を脚色、自ら演出して復活上演しました。二代目中村鴈治郎と二代目中村扇雀(=四代目坂田藤十郎)の共演による舞台は大好評を博し、現在もこの脚本と演出で上演され続けています。また森鴎外の『ぢいさんばあさん』、谷崎潤一郎の『盲目物語(もうもくものがたり)』など文学作品の脚色・演出も得意としました。国立劇場が開場すると、のちに理事に就任し、依頼を受けて執筆した1970(昭和45)年5月上演の『柳影澤蛍火(やなぎかげさわのほたるび)』は、戦後の新作歌舞伎史上の名作と高い評価を得ました。『宇野信夫戯曲選集』『自選世話物集』などの戯曲集をはじめ、随筆なども多く著しています。1991(平成3)年10月28日87歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
慶應義塾に通っていた頃は寄席や講釈場へ通いつめ、橋場の家には若い噺家たちが出入りしていたといいます。まだ売れていなかった彼らと盛んに交遊した経験は、後年彼の作風に大きな影響を与えました。宇野自身、黙阿弥や南北より、三遊亭圓朝の速記本を通じて学んだことの方がはるかに大きかったと述べています。当時すでに過去のものとなっていた江戸の市井の人々の生活を舞台上に生き生きと描き出し、詩情豊かな台詞と情景の中に人生のはかなさや温かさを通わせる作風は、世話物狂言の作者として高く評価されました。その一方で『柳影澤蛍火』『花の御所始末(はなのごしょしまつ)』など、西洋劇それもシェイクスピア史劇風の手法を生かしたスケールの大きな時代物も執筆しています。ジャンルも歌舞伎のみならず新劇、新派、新国劇、前進座など多岐にわたり、生涯に200余りの戯曲・脚本を手掛けました。

作品のイメージから純和風の人物と取られがちですが、普段は帽子を少しななめに被りお洒落な舶来の洋服を着てネクタイをしたハイカラな恰好をしていたそうで、西欧の戯曲や映画にも精通していた別の一面をうかがうことができます。また絵も達者で自ら舞台装置図を描いたり、絵に俳句を添えた色紙を親しい人にあげることも好きでした。1985(昭和60)年以降の歌舞伎座筋書の巻頭には、毎月の出し物に因んだ絵に一筆添えた宇野の作品が掲載されています。(井川繭子)

【代表的な作品】
ひと夜(ひとよ) 1933(昭和8)年10月 ※新劇として初演
吹雪峠(ふぶきとうげ) 1935(昭和10)年1月
巷談宵宮雨(こうだんよみやのあめ) 1935(昭和10)年9月
人情噺小判一両(にんじょうばなしこばんいちりょう)1936(昭和11)年12月
俥(くるま) 1948(昭和23)年5月 ※『父親(ちちおや)』1930(昭和5)年の改題
怪談蚊喰鳥(かいだんかくいどり) 1949(昭和24)年7月
ぢいさんばあさん 1951(昭和26)年7月 ※脚色
曽根崎心中(そねざきしんじゅう) 1953(昭和28)年8月 ※脚色
盲目物語(もうもくものがたり) 1955(昭和30)年7月 ※脚色
おちくぼ物語(おちくぼものがたり) 1959(昭和34)年9月
不知火検校(しらぬいけんぎょう) 1960(昭和35)2月
柳影澤蛍火(やなぎかげさわのほたるび) 1970(昭和45)年5月
花の御所始末(はなのごしょしまつ) 1974(昭和49)年6月

【舞台写真】
『ぢいさんばあさん』[左から]伊織妻るん(中村福助)、美濃部伊織(坂東三津五郎) 平成24年2月新橋演舞場