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源平合戦~一ノ谷の戦い

1183(寿永2)年、木曽義仲によって都を追われた平家一門は、安徳天皇と三種の神器を奉じて九州太宰府へと逃れます。翌1184(寿永3)年、平家は再び東上し、義仲を討った源範頼(みなもとののりより)・義経と2月7日に摂津国須磨・福原(現在の神戸市の一部)一帯で戦います。『平家物語』には義経軍が断崖絶壁を馬で駆け下りて平家方に奇襲を行った「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」や、歌人として知られた平忠度(たいらのただのり)の最期などが描かれます。忠度の逸話と、源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が平敦盛を討った一件を元に並木宗輔が執筆した浄瑠璃が『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』で、歌舞伎にも移され盛んに上演されています。
直実は、馬に乗って沖に浮かぶ味方の舟へと向かう平家の若武者を呼び戻し、戦いを挑みます。ついに若武者を組み伏せ、首を討とうとその顔を見れば、年齢は16、7歳ほど、薄化粧をしてまことに美しい姿です。直実は我が子の小次郎直家と同年輩の青年を殺すに忍びなく、その名を問う直実でしたが、若武者は名乗らず早く首を討つよう直実に促します。味方の軍勢の目もあり、泣く泣く若武者を討った直実。後に聞けば、この若武者こそ平経盛(たいらのつねもり)の子敦盛(あつもり)であったといい、これを機に直実は仏門への想いを深くしたと『平家物語』は記しています(なお、『源平盛衰記』では敦盛は自分の名を名乗っています)。
この物語を並木宗輔は大胆にも、直実が討ったのは敦盛に変装した小次郎直家であり、敦盛は実は一ノ谷の戦いから生き延びていたという設定へと変更します。現在の歌舞伎では、観客の目をも欺いてすり替えが行われる「陣門・組討」と、小次郎の母・相模や敦盛の母・藤の方といった関係者が一同に会する中で事実が明らかになる「熊谷陣屋」が頻繁に上演されています。この身替わりの計略は義経からの指示を受けた直実が、敦盛を密かに救うために行ったものでした。『一谷嫩軍記』の義経は主役ではないものの、物語全体を動かすキーマンとして、重要な役割を果たしています。(日置貴之)

【写真】
『一谷嫩軍記』組討 [左から]熊谷次郎直実(中村吉右衛門)、無官太夫敦盛(尾上菊之助) 平成27年2月歌舞伎座
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