語り物をさす浄瑠璃という名称は、室町時代中期に成立した『浄瑠璃物語』(『浄瑠璃姫十二段草紙』とも)が大流行したためだと言われます。若く美しい浄瑠璃姫と源義経とのロマンスを描いた語り物が大流行したために、ほかの語り物まで浄瑠璃と呼ばれるようになったのです。それ以前、琵琶法師による「平家語り」(平曲)が平家の滅亡と諸行無常を語っていたところに、富貴な長者の才色兼備なお姫さまと義経の恋の物語が現れたのは画期的でした。さらに、16世紀末に大陸から渡来した三味線が浄瑠璃の伴奏に使われるようになり、人形遣いと組んだ人形浄瑠璃の形式が江戸時代初期に成立すると、さまざまな流派が生まれます。1686(貞享3)年に近松門左衛門作の『出世景清』が初世竹本義太夫によって上演され、大ヒットすると、義太夫節が浄瑠璃の主流となり、それ以前の浄瑠璃は一括りに「古浄瑠璃」と呼ばれるようになります。18世紀に人形浄瑠璃に次々と名作が生まれると、すぐに歌舞伎に取り入れられ、「義太夫狂言(丸本歌舞伎とも)」という一大ジャンルを形成します。
同じころ、江戸では江戸半太夫による半太夫節が流行し、人形芝居や二代目市川團十郎の芝居にも出演。京で流行ったのは都太夫一中の一中節で、1715(正徳5)年と1718(享保3)年に江戸の市村座にも出演。その一中の門人の半中が1730(享保15)年に宮古路豊後(みやこじぶんご)と改名して江戸に進出し、中村座に出演して江戸に豊後節ブ-ムを起こします。しかしその扇情的な曲節は幕府の弾圧を受けてしまいます。この豊後節から、やがて常磐津節(ときわづぶし)、富本節(とみもとぶし)、薗八節(そのはちぶし)、清元節(きよもとぶし)などが生まれるのです。(浅原恒男)