1. 用語
  2. 作者人名録
  3. 大森痴雪

おおもりちせつ 大森痴雪

明治末から昭和初期にかけて初代鴈治郎とともに活躍した上方劇壇の立作者

1877(明治10)年12月13日~1936(昭和11)年5月26日

【略歴 プロフィール】
本名は大森鶴雄といい、1877(明治10)年に東京で生まれました。慶応義塾大学を卒業し、京都新聞や大阪の毎日新聞、朝日新聞などの記者となり、すでに劇作家として活躍していた先輩の渡辺霞亭(わたなべかてい)と共に大阪脚本研究会を作って戯曲の研究に取り組みます。1917(大正6)年、松竹に入社すると、座付作者として関西歌舞伎の上演作品を執筆しました。特に初代中村鴈治郎のために多くの新作歌舞伎を執筆し、その数は約40篇にもなります。鴈治郎が家の芸として制定した玩辞楼十二曲(がんじろうじゅうにきょく)のうち、『あかね染(あかねぞめ)』『恋の湖(こいのみずうみ)』、そして菊池寛の原作を脚色した『藤十郎の恋(とうじゅうろうのこい)』の三作が大森痴雪の手になる作品です。痴雪の作品は鴈治郎の華やかで艶やかな魅力を大いに生かし、当時の上方劇界に大いに歓迎され人気を博しました。その晩年は松竹の顧問として活躍し、関西劇壇の大御所的な存在でした。1936(昭和11)年5月26日に60歳で亡くなりました。

【作風と逸話】
関西歌舞伎の作者として活躍した痴雪ですが、実は東京生まれの東京育ちです。そのため、関西出身の作者にはない、上方の文化や芸術への憧れがその作風に現れているといわれています。近松門左衛門の世話物など原作のある作品を脚色したものも多く執筆していますが、登場人物の設定を再構築して、恋愛事件を引き起こす若者というだけでなく、その背景も作り込んで骨のある人物としても描いています。多くの新歌舞伎作品が生まれた大正期という時代に合わせて、痴雪も古典的題材を近代的に様式化した作品を書きましたが、リアルを追求するというよりは大正ロマン的な情緒に富んだ作品が多かったといわれています。

俳優や興行に合わせて作品を執筆しなければならない座付作者という仕事に就いていた痴雪ですが、実際に執筆が完了したあとも、上演するまでには多くの訂正が入るのが常でした。その台本は俳優やスタッフからの注文が稽古場で書き込まれ、いつも真っ黒になっていた、と近松研究家の木谷蓬吟(きたにほうぎん)が述べています。同時代の同じ関西の座付作者だった食満南北(けまなんぼく)が作者と興行にかかわる奥役を兼業していたのに対して、彼は興行などには一切かかわらずこの座付作者の立場に専念しました。(井川繭子)

【代表的な作品】
玩辞楼十二曲の内 恋の湖(こいのみずうみ) 1915(大正4)年1月
※初演時「けいせい恋湖水(けいせいこいのみずうみ)』
玩辞楼十二曲の内 あかね染(あかねぞめ) 1917(大正6)年1月
お夏清十郎(おなつせいじゅうろう) 1917(大正6)年5月
玩辞楼十二曲の内 藤十郎の恋(とうじゅうろうのこい) 1919(大正8)年10月 ※脚色
樽屋おせん(たるやおせん) 1919(大正8)年12月
いろは新助(いろはしんすけ) 1920(大正9)年5月
九十九折(つづらおり) 1923(大正12)年1月
秋成の家(あきなりのいえ) 1924(大正13)10月
室津の歌(むろつのうた) 1926(大正15)年10月
小三金五郎(こさんきんごろう) 1934(昭和9)年3月

【舞台写真】
『藤十郎の恋』[左から]宗清女房お梶(中村時蔵)、坂田藤十郎(中村扇雀) 平成18年1月歌舞伎座
  1. 用語
  2. 作者人名録
  3. 大森痴雪