しゅくば 宿場

宿場はもともと「駅(えき)」と呼ばれていました。駅とは厩舎(きゅうしゃ)のことです。宿場というと旅人が泊るところと考えられがちですが、馬や人足を常備し次の宿場までの交通輸送手段である「人馬の継立(つぎたて)」が最重要業務でした。それも一般旅人ではなく主に幕府や公家・大名など公用のためでほぼ無償、その公用の乗継馬を「伝馬(てんま)」と呼びました。江戸の伝馬町からまず品川・千住などへ人や荷物を輸送、それが宿場から宿場へとリレー式に受け継がれてゆきました。これがすなわち「駅伝」です。
日本橋から最初の宿場(=初宿)は東海道の「品川」、甲州街道の「内藤新宿」、中山道の「板橋」、日光・奥州街道の「千住」で、これを「江戸四宿(えどししゅく)」と呼びます。いずれも日本橋からほぼ二里(8㎞弱)のところにあり、宿泊よりは送迎場所としてにぎわいました。宿場には本陣、脇本陣、旅籠(はたご)といった宿泊施設がありますが、大名は本陣かその補助施設の脇本陣にしか宿泊できませんので、混みあうときは神社仏閣を利用しました。庶民が利用する旅籠には自然発生的にサービス業として食売女(=飯盛女)が登場し、飯売旅籠による廓まがいの色街が形成されて行きました。(金田栄一)

【写真】
『蔦紅葉宇都谷峠』[右から]伊丹屋十兵衛(松本幸四郎)、座頭文弥(中村勘三郎) 昭和49年11月歌舞伎座