京鹿子娘道成寺 キョウガノコムスメドウジョウジ

観劇+(プラス)

執筆者 / 阿部さとみ

女方舞踊の最高峰

『京鹿子娘道成寺』は女方舞踊の最高峰に位置する舞踊。女方の技術のすべてがこの作品にある。舞台に出ていない時間はあるにしても、一時間近くを一人で踊りきる大曲である。七代目尾上梅幸、六代目中村歌右衛門、四代目中村雀右衛門、四代目坂田藤十郎、七代目中村芝翫、五代目坂東玉三郎、十八代目中村勘三郎など、時代を超えて華麗な舞台が観客を魅了し続けている。

二つのバージョン(音羽屋系と成駒屋系)ここに注目

「娘道成寺」は大きくわけて2つのバージョンがある。一つが音羽屋系で、六代目尾上菊五郎から七代目尾上梅幸、七代目尾上菊五郎、十八代目中村勘三郎、五代目尾上菊之助が伝承。もう一つは成駒屋系で五代目中村歌右衛門から六代目中村歌右衛門へと受け継がれた。白拍子の烏帽子を落とす場面で、音羽屋は烏帽子を中啓の上にのせてキマリ、成駒屋系では、烏帽子を落として鐘の吊り紐にかける。鞠つきでは、音羽屋が桜の花びらを集めて鞠を作るのに対し、成駒屋系は鞠を懐から出し、鞠つきに坊主が絡む。他に中啓や衣裳の柄にも違いが見られる。

押戻し

終局には2つのパターンがある。花子が鐘の上に登って幕になるパターンと、押戻しになるパターンである。後者は、花子が隈取りに赤頭という長い毛をつけた鬼女(蛇の本性を顕した)姿になって現れ、超人的英雄に押し鎮められる。「押戻し」という局面は、市川團十郎の家の芸「歌舞伎十八番」の一つに数えられる。押戻す人物は、隈取りをし、高足駄を履き、肩蓑に竹笠。大きな青竹を持って花道から登場する。



【写真】[左から]白拍子花子(中村福助)、大館左馬五郎照剛(市川海老蔵) 平成22年8月新橋演舞場

遊女から娘の恋へ

歌舞伎舞踊の「道成寺物」の最初は、傾城の亡霊が白拍子になって鐘供養に訪れるというものだった(初代瀬川菊之丞『無間の鐘新道成寺(傾城道成寺)』1731(享保16年)。その後『百千鳥娘道成寺』(1744(寛保4)年)では、傾城に田舎娘の死霊が乗り移るという設定で二つのクドキと鞨鼓の振りや手踊りが取り入れられた。こうした流れの中『京鹿子娘道成寺』が誕生。先行作では特定の女の恨みごとだったのを、多くの娘に共通する普遍的な恋の姿とした。そこに新しい魅力が生まれ、明るさ華やかさが江戸の観客の好みに合い、決定版となった。

『京鹿子娘道成寺』のバリエーションここに注目

『京鹿子娘道成寺』からは数多くの作品が派生した。中でも白拍子と見えたのが実は狂言師の男だったという趣向で、立役が踊る『奴道成寺』が好評を得て、今日までも人気の曲になっている。現行の作品は、明治期に四代目中村芝翫が演じた系譜で、狂言師が三つの面を使い分けるクドキが眼目。近年では十代目坂東三津五郎が得意とし、四代目尾上松緑、三代目市川猿之助も好演した。他に白拍子と狂言師の男女が踊り分ける『男女道成寺』、白拍子二人の『二人道成寺』など幅広く展開している。

安珍清姫伝説

紀州道成寺に伝わる伝説。熊野詣の途中で立ち寄った美しい僧安珍(あんちん)に、真砂の庄司の娘清姫(きよひめ)が恋をした。嫁にしてほしいとかき口説く娘に対し、安珍は帰りに必ず立ち寄ると返事をしたが、寄らずに逃げてしまう。だまされたと知り、怒りくるった清姫はものすごい勢いで安珍を追いかける。日高川を渡った安珍は、道成寺に助けを求め、寺は梵鐘を下してその中へ安珍をかくまった。清姫は蛇体となって川を渡り、寺の鐘に巻き付き鐘もろとも安珍を焼き殺してしまったという。