勧進帳 カンジンチョウ

観劇+(プラス)

執筆者 / 寺田詩麻

歌舞伎十八番

江戸時代後期の歌舞伎の名優七代目市川團十郎が、1832(天保3)年に家の芸として制定した十八の作品。初代以来の團十郎が上演した、超人的な力の表現である荒事(あらごと)が見どころとなるものが選ばれていて『勧進帳』もその一つ。現在上演されている『勧進帳』は1840(天保11)年に七代目が初演した作品だが、初代が1702(元禄15)年『星合十二段(ほしあいじゅうにだん)』で安宅の関の場面を演じて以来、四代目初演の『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』などで代々の團十郎がこの場面を演じた先例がある。

松羽目物(まつばめもの)ここに注目

幕が開くと、左手に五色の揚幕(あげまく)、右手に臆病口(おくびょうぐち)、後ろに大きな松の絵(鏡板)のある舞台背景が現れる。この背景は、歌舞伎より古く江戸時代にはすでに高尚な芸能となっていた能・狂言で使用される能舞台をモデルとして作られている。またこの背景を使うということは、ここで上演される作品の演出もなるべく能・狂言の方法に近づけて行われることを示している。この背景を用いる作品群はとくに「松羽目物」と呼ばれ、江戸時代後期から明治時代に多く作られた。『勧進帳』は松羽目物のさきがけとなった作品でもある。

長唄の名曲

長唄『勧進帳』は四代目杵屋六三郎(きねやろくさぶろう)の作曲。あくまで歌舞伎の舞台の伴奏曲としてつくられているため、演奏会などで曲だけ聞くと筋のつながらないところができてしまうが、唄・三味線・囃子(はやし)それぞれに変化が多く、聞かせどころがいくつもある。上演回数の多さもあって、長唄の中でもっともよく知られている曲のひとつ。

山伏

修験者(しゅげんじゃ)。諸国を旅しながらけわしい山に入って修行し、超能力や呪術の方法を学んで宗教活動を行う僧侶。服装は仏の姿をかたどったものとされる。現在、『勧進帳』の弁慶は頭に兜巾(ときん)をつけ、撫で付けの鬘(かつら)、翁格子(おきなごうし)の着付、金で梵字を書いた黒の水衣(みずごろも)、その上に丸い玉をつなげたような鈴懸(すずかけ)をかけ、輪宝(りんぽう)模様の大口(おおくち)の袴をはく。足元は白足袋。荷物を入れる笈(おい)を背負い、手に金剛杖を持つ。これは能『安宅』の弁慶の扮装を参考にしている。

勧進ここに注目

寺院や神社では、建物や仏像を作るなどの宗教活動を行う資金を必要とするときに、信者からの勧進(寄付)を求める。『勧進帳』の弁慶は、東大寺の再建資金を集める山伏のふりをしている。読み上げる勧進帳の内容は「奈良時代の聖武天皇が作られた東大寺は火事で焼けてしまったが、再建するために資金や物資を集めている。少額でも寄付をすると現世で良いことがあり、来世では極楽に行くことができる」というものである。

山伏問答

富樫と弁慶が、山伏の服装の意味と「九字の真言」について、問いと答えで明らかにする場面。問答が進むにつれて二人の位置はだんだん近づき、緊迫感を盛り上げる。だいたいの内容としては、山伏の服装の全体は仏の姿に似せていて細かいところまで意味がある、目に見える敵には持っている太刀を使うこともありうる、目に見えない魔物は「臨兵闘者皆陳列在前」の「九字の真言」で退治することができる、というものである。この問答は能の『安宅』にはなく、田辺南窓(なんそう)の講釈(講談)の作品から取り入れたとされる。

飛び六方の引っ込みここに注目

「六方(ろっぽう)(六法とも)」は足と手を大きく振り、歩く演技のこと。「踏む」ものである。寺院で霊や悪鬼を踏み鎮めるために行われた儀礼の歩き方に起源を持つと考えられている。民俗芸能などにも見られるが、歌舞伎では多くの場合荒事(あらごと)の演出として、主要な登場人物の退場時に行われる。『勧進帳』の飛び六方は、主君義経のあとを追う弁慶の力強さを、客席の中を通る花道をいっぱいに使って臨場感豊かに見せる最後の見せ場。

見得(みえ)

見得は重要な局面で人物が動きを止めて決まる形を見せるもので、映画のクローズアップにあたる。『勧進帳』には見得がいくつもあるが、たとえば勧進帳の読み上げで巻物をのぞき込む富樫、気づく弁慶、笠に手を掛ける義経の三人がする見得は「天地人(てんちじん)の見得」、読み終わった弁慶が胸の前で数珠をかまえるのは「不動の見得」、山伏問答の最後に弁慶が行うのは「元禄見得」、主従の述懐の場面でやはり弁慶が石を投げるような形で決まるのは「石投げの見得」。勧進帳を読み、問答を行い、舞を舞い、要所要所で美しい見得を見せながら、最後に飛び六方で花道を入る弁慶は、一瞬も休むひまのない大役なのである。