名月八幡祭 メイゲツハチマンマツリ

観劇+(プラス)

執筆者 / 小宮暁子

越後縮売

雪深い越後の国(新潟県)魚沼や小千谷地方などで作られる麻織物の「上布」や
「縮」は高級品として江戸でも人気が高かった。冬に織り上げ、雪の晴れ間にさらし
た布を、夏の間長期間江戸に滞在して売り歩くのが越後の縮売で、江戸の風物詩でも
あった。

羽織芸者ここに注目

江戸時代、深川芸者は元々男の衣服である羽織をはおって宴席に出ることがあり、俗称となっていた。富岡八幡宮の門前町として栄えた深川は、江戸城の辰巳の方角に当たるので辰巳芸者ともいわれた。男勝りの気風(きっぷ)の良さと洗練された粋=意気を身上としていた。

船頭

川や堀割の多かった江戸の町は、遊所がよいに舟でゆく事も多く、船遊びは江戸の風物でもあり、鳶職とならんで船頭も花形職業の一つだった。落語で道楽者の若旦那のにわか船頭ぶりを面白おかしく語った「船徳」など好例。鶴屋南北作「盟(かみかけて)三五大切」でも主役の一人は三五郎という色男の船頭だ。

旗本

江戸幕府では、徳川将軍家の直参(じきさん、直属のこと)で御目見得以上の侍を指す。家禄は一万石未満。御目見得以上とは将軍に直に会えるという格をあらわし、御家人は直に将軍家に拝謁することはできなかった。俗に旗本八万騎と称されたが太平の世では腕を発揮する機会はない。なかには町奴と対抗する「番町皿屋敷」の青山播磨、「極付幡随長兵衛」の水野十郎左衛門のように芝居で活躍する者も。ことに水野は三千石の実在の名家。

永代橋ここに注目

元禄11(1698)年、日本橋箱崎町と深川佐賀町との間にかけられた。文化4(1807)年8月、12年ぶりに再開された八幡祭の日、雨で15日から19日に延期されたこともあり、待ちに待って押しよせた大勢の群衆の重みに耐えかねて橋が落ちるという大事件が勃発。1500人を越える溺死者を出したと言われている。芝居では「髪結新三」「小猿七之助」などにもこの橋が登場する。

深川八幡宮ここに注目

富岡八幡宮が正式名称。応神天皇ほか七神を祀る。江戸初期には砂洲だった場所を埋め立て、寛永4(1627)年社殿が建立された。祭礼は8月15日で名高い。神田明神の神田祭、赤坂日枝神社の山王祭、浅草神社の三社祭にも負けない盛大さ。見物が御輿のかつぎ手に水をかけるのでも有名。ほかが初夏の祭りなので、東京の夏祭と言えば、深川の八幡祭が第一に浮かぶ。

「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」

「名月八幡祭」の元となった河竹黙阿弥の世話物作品。美代吉の情夫は三次ではなく浪人穂積新三郎で、話の大筋は妖刀村正をめぐるお家騒動、新助と美代吉が兄妹だった因果噺になっている。永代橋落下の大事件、当時人気の縮売りを取り入れるなど興味深い話題満載でまれにみる大当たりをとった。

本水の立ち回りここに注目

美代吉殺しの場面では、激しい夕立に本当の水を使う。本水(ほんみず)と呼び、冷房設備のなかった江戸時代から夏芝居を涼しく見せるために使われた演出だった。しぶきを上げながらの凄まじい立ち回りは、観客席にも水気が伝わる迫力の見どころだ。本水の雨粒は、正面からの写真や映像には映りにくく、客席に座って眼と肌で感じる醍醐味を紹介することは、なかなか難しい。