元禄忠臣蔵 ゲンロクチュウシングラ

登場人物

人物関係図

人物相関図

主な登場人物

大石内蔵助【おおいしくらのすけ】
赤穂藩の国家老で、禄高は千五百石であった。幼名は喜内(きない)。代々赤穂藩家老をつとめる家に生まれ、19歳で家督を継ぎ、20年以上にわたり藩主浅野内匠頭に仕えた。思慮深く器の大きい人物だが、「昼行燈」と陰口を叩かれるほど鷹揚で、またなかなか本心を語らない。苅屋城(赤穂城)の明け渡しにあたって、内匠頭の実弟浅野大学によるお家再興を願い出る。浪人後は京の郊外山科に閑居。再興が不許可となった後、四十七名の赤穂浪士たちの頭領として、1702 (元禄15)年12月14日吉良邸に討入り、悲願の仇討を成し遂げる。享年45歳。大石家は関白近衛家の家来筋であり、浪人中には近衛家からの帰参の誘いを断っている。
浅野内匠頭【あさのたくみのかみ】
播磨国(現在の兵庫県)赤穂藩五万三千石の藩主で35歳、生まれつき潔癖でやや短気。朝廷勅使の饗応役を仰せつかったが、接待役の高家吉良上野介による侮辱に耐えかねたか、儀式当日の1701(元禄14)年3月14日に江戸城内松の廊下で吉良に斬りつける。事件後即日、吉良にとどめを刺せなかったことを無念に思いながら、愛宕田村邸の仮座敷で切腹する。
吉良上野介【きらこうずけのすけ】
将軍家の典礼を司る高家肝煎。朝廷への年賀使として度々上洛。妻が米沢藩主の妹であった縁から長男を米沢藩主上杉家の養子に出し、外孫の左兵衛督義周(さひょうえのすけよしちか)を自身の養嗣子とした。年賀返礼の勅使饗応の儀式の日に内匠頭に斬りつけられ額に傷を受けたが、抜刀しなかったので咎めを受けなかった。事後隠居して江戸城に近い呉服橋から、本所へ屋敷を移す。赤穂浪士の討入りにより落命。
梶川与惣兵衛【かじかわよそべえ】
禄高七百石の旗本。55歳。御台所付留守居役。大力で知られ、刃傷に及んだ浅野内匠頭を背後から抱きとめたので、内匠頭の無念が残ることに。
多門伝八郎【おかどでんぱちろう】
禄高七百石の旗本で目付(大名や旗本の監視を担当する役職)の一人。43歳。内匠頭の処分を決める評議に参加し、老中柳沢美濃守から裁定が下った時、公正な判断ではないとただ一人反対を唱えた。検死役として田村家上屋敷に赴き、切腹場が邸内でなく仮座敷であることを難じる。切腹までの間に内匠頭の家臣に目通りを許す。
田村右京太夫【たむらうきょうだゆう】
奥州一ノ関藩三万石の藩主。芝愛宕山の上屋敷に罪人となった内匠頭の身柄を預かり、切腹の場所として庭先に仮座敷を作る。
庄田下総守【しょうだしもうさのかみ】
刃傷事件当時の幕府の大目付(目付の上位の役職)の一人。内匠頭の検死役として、多門伝八郎、大久保権左衛門とともに田村家上屋敷に遣わされる。役目を滞りなく果たすことを第一と考える。
片岡源五右衛門【かたおかげんごえもん】
赤穂浪士。内匠頭に仕えた江戸詰の側近で、当時は小姓頭の地位で三百五十石。討入り時は36歳の美男。赤穂藩士としてただ一人、内匠頭の最期を見届ける。
奥野将監【おくのしょうげん】
赤穂藩の国許の重臣。禄高は千石。親戚でもある内蔵助に深く信頼され、苅屋城明け渡しを内蔵助を補佐して成し遂げたが、討入りには加わらなかった。
大野九郎兵衛【おおのくろべえ】
赤穂藩城代家老で禄高六百五十石。65歳ぐらい。藩取り潰し後の財務処理などについて内蔵助の説得を試みるが、不調に終わると息子郡右衛門とともに逐電。
大石松之丞(主税)【おおいしまつのじょう(ちから)】
内蔵助の長男。刃傷事件当時は14歳。本心を語らない父にもどかしい思いを抱き、親子の縁を切る覚悟で元服し、祖父の幼名主税を名のる。浪士中の最年少として討入りに参加、裏門を守る。
井関徳兵衛【いぜきとくべえ】
内蔵助と同い年の幼馴染。禄高五百石で赤穂藩に仕えていたが、直情的で融通の利かない性格から浪人して備中児島(現在の岡山県倉敷市の一部)に移った。刃傷事件のことが伝わると、幕府の使者と一戦交える覚悟で20年ぶりに赤穂に駆けつけるが、内蔵助に拒否され切腹。だが絶命する直前に内蔵助から秘めた決意を聞く。
井関紋左衛門【いぜきもんざえもん】
浪人後に生まれた徳兵衛の息子。大石松之丞と同じ14歳。急ぎ元服して、父に従う。が、父とともに自害。
岡島八十右衛門【おかじまやそえもん】
赤穂浪士。赤穂藩の札座勘定方で、禄高二十石五人扶持であった。討入りの時は36歳。内蔵助の命を受けて藩の財政整理に尽くし、大野九郎兵衛と対立した。
おりく【おりく】
内蔵助の妻。但馬豊岡の大名京極家の家老石束源五兵衛(いしづかげんごべえ)の娘。内蔵助との間に長男松之丞、11歳の次男吉千代、13歳の娘おくう三人の子がいる。仇討ちを前に、次男と娘とともに実家へ帰る。
原惣右衛門【はらそうえもん】
赤穂浪士。禄高三百石で物頭(ものがしら)をつとめていた。討入り時は55歳。江戸での刃傷事件のあと、主君切腹・お家取り潰しを知らせる第二の使者として国許に駆けつけ、内匠頭の従兄である大垣藩主戸田采女正(とだうねめのしょう)からの、赤穂藩士一同へ謹慎の訓示を伝えた。
小野寺十内【おのでらじゅうない】
赤穂浪士。赤穂藩京都留守居役として禄高百五十石であった。討入り時は60歳。江戸での凶変が伝わると、勅使供応の役目だった内匠頭の不祥事に対する朝廷の反応を探り、禁裏では内匠頭に対し同情的と内蔵助に伝える。
堀部(中山)安兵衛【ほりべ(なかやま)やすべえ】
赤穂浪士。刃傷事件の7年以前の1694(元禄7)年に起きた「高田馬場の決闘」の助太刀をして名をはせた剣客中山安兵衛。決闘後に赤穂藩士堀部弥兵衛(やへえ)の婿養子となり、禄高二百石の馬廻役として赤穂藩の江戸藩邸に仕えた。刃傷事件当時は32歳。最も強硬に吉良への仇討を主張した江戸詰一派の中心人物。
高田郡兵衛【たかだぐんべえ】
槍の名手として知られた江戸詰の赤穂藩士。浪人後も堀部安兵衛らとともに吉良への復讐を主張していたが、身内に計画が漏れて反対され、心ならずも脱盟。討入りを聞き、泉岳寺に駆けつけたが…
磯貝十郎左衛門【いそがいじゅうろうざえもん】
赤穂浪士。禄高百五十石の近習物頭であった。討入り時には24歳。江戸生まれ江戸育ちの優美な若侍で、堀部安兵衛たちとは相容れなかった。切腹の直前、内蔵助に呼び出されて許嫁だったおみのと対面。懐に秘かにおみのの琴爪を忍ばせていることを内蔵助に見抜かれ…
戸田権左衛門【とだごんざえもん】
大垣藩の家老。赤穂藩士たちが公儀に逆らって巻き添えにされるのを恐れ、平和裏に城を使者に明け渡すよう内蔵助を説得しにくる。
不破数右衛門【ふわかずえもん】
赤穂浪士。禄高二百石で赤穂藩に仕えていたが、刃傷事件の数年前に内匠頭の怒りを買い浪人して江戸に住む。嘆願が通って仇討の同志に加わり、大坂で堀部安兵衛とともに内蔵助と合流するはずだったが、期日を過ぎても内蔵助が現れなかったため、業を煮やして京都で内蔵助と直談判におよぶ。討入り時33歳で、大いに奮戦した。
浮橋【うきはし】
京伏見撞木町(ふしみしゅもくちょう)の遊女。内蔵助の敵娼(あいかた)として、内蔵助の苦衷を察し、血気に逸って内蔵助のもとを訪れる浪士たちにも気を配る。
進藤八郎右衛門【しんどうはちろうえもん】
浅野本家が治める大藩広島藩のお船奉行。60歳前後。内蔵助の遠縁の親戚で、内蔵助は伯父分として付き合う。赤穂浅野家再興を願い出る使者として江戸に向かう途中に内蔵助と面会し、使者の役目を内蔵助に伝えた上で、自分が役目を果たす前に討入りを決行するよう忠告する。
富森助右衛門【とみのもりすけえもん】
赤穂浪士。江戸詰の御使番として禄高二百石であった。討入り時には33歳。甲府侯綱豊卿の御浜御殿の浜遊びに吉良が参加することを聞きつけ、御殿に上がったお喜世の仮兄である縁を頼って浜遊びの見物を願い吉良の動向を探ろうとする。しかし思いがけず綱豊と対面することになり、討入りの是非を巡って緊迫したやりとりを繰り広げる。
徳川綱豊【とくがわつなとよ】
五代将軍徳川綱吉の甥で41歳。甲府藩三十五万石を治め甲府宰相、また尊称をつけ綱豊卿とも呼ばれる。次期将軍と目されるがあえて政治の中枢と距離を置き、別邸の浜手屋敷で気ままに暮らしている。夫人の実家関白近衛家から赤穂浅野家再興嘆願の要請を受けるが、浪士たちの仇討を実現させたいという思いが強い。のちに綱吉の養子として江戸城に入り、六代将軍徳川家宣(いえのぶ)となる。浜手屋敷は以後将軍家の庭園として御浜御殿と呼ばれ、明治以降は浜離宮となる。
お喜世【おきよ】
甲府候綱豊卿の寵愛を受ける中臈。初々しさの残る18歳。以前は鉄砲洲にあった浅野家上屋敷で、瑤泉院の側近くに仕えていた。赤穂浪士富森助右衛門の母を仮親として、甲府家に奥方付の女中として仕え、中臈に。助右衛門から受けた嘆願書を上臈(上級の御殿女中)の浦尾に見咎められるが、江島に助けられる。のちに綱豊の後継ぎ、七代将軍徳川家継の生母になる。六代将軍没後は落飾して月光院と名乗り、江戸城大奥で権勢を得る。
江島【えじま】
綱豊の祐筆(ゆうひつ、現在の書記のような役割)。立場の弱いお喜世を助ける。のちに幕府を揺るがせた一大スキャンダル「江島生島事件」の中心人物。
新井勘解由【あらいかげゆ】
歴史上は号の新井白石(はくせき)で知られる学者で、綱豊の学問の師。46歳。仇討と浅野家再興の間で揺れる綱豊の心情を聞き、中国とは異なる日本の侍心を説く。
羽倉斎宮【はぐらいつき】
伏見稲荷の神官であり、荷田春満(かだのあずままろ)の名で知られる国学者。35歳。討入り前に自害した浪士萱野三平(かやのさんぺい)とは乳兄弟の間柄。歌人としても知られ、瑤泉院の和歌の師となった。吉良が確実に屋敷にいる時を狙う知恵を教えようとするが、義を重んじる内蔵助に拒否され、強烈に非難する。
瑤泉院【ようぜんいん、一般に「ようぜいいん」と言われるが誤読とされる】
内匠頭の未亡人、討入り時には29歳。元の名は阿久里(あぐり)。内匠頭切腹後に仏門に入って瑤泉院と称す。家断絶後は赤坂今井(現在の氷川台)にある実家の三次(みよし)浅野家中屋敷に在住し、金銭面で浪士たちを陰から支援した。
寺坂吉右衛門【てらさかきちえもん】
赤穂浪士。吉田忠左衛門配下の足軽(あしがる)という軽輩な身分だったが、仇討の同志に加わることを許された。討入り時に38歳。討入り成功後、忠左衛門と内蔵助の指示により、瑤泉院や浅野大学らへ首尾を知らせに回るために、泉岳寺に着く前に一行から離れた。
甚三郎【じんざぶろう】
吉良屋敷周辺にて討入りを見届けた、浪士近松勘六の下男。勘六が負傷したと聞くと、危険を顧みず屋敷内に立ち入る。
吉田忠左衛門【よしだちゅうざえもん】
内蔵助に次ぐ浪士たちの副頭領。赤穂藩の飛領である加東郡代、二百石であった。討入り時には61歳。息子の吉田沢右衛門(さわえもん)も討入りに加わる。討入り後、富森助右衛門とともに大目付仙石伯耆守へ事件を届け出る。
戸田の局【とだのつぼね】
瑤泉院の側に仕える奥女中。討入り成功の知らせを受けて瑤泉院の名代として泉岳寺に駆けつけ、浪士たちに瑤泉院の感謝とねぎらいの言葉を伝える。
仙石伯耆守【せんごくほうきのかみ】
大目付の任を負う禄高千八百石の旗本。内匠頭の遠縁の親戚ともいわれる。吉良を討ち取った赤穂浪士たちの自首を受けて老中に伝え、尋問で討入りの詳細な状況を聞き取って彼らの言い分と神妙な態度に感服する。
細川内記【ほそかわないき】
内蔵助ら17名の浪士を預かった熊本藩主細川越中守綱利(ほそかわえっちゅうのかみつなとし)の嫡子。15歳。内蔵助に一生の宝となるような餞の言葉を所望する。
堀内伝右衛門【ほりうちでんえもん】
細川家の家臣で、討入り後の浪士たちの世話役。旧友の乙女田杢之進(おとめだもくのしん)の娘おみのを内蔵助に引き合わせる。
おみの【おみの】
細川藩士であった浪人乙女田杢之進の娘で17歳。磯貝十郎左衛門を婿にとることになっていたが、急に音信が途絶えて心配する中、討入りに磯貝も参加していたことを聞き、磯貝が自分を利用しただけなのか本心を知るため、男装して内蔵助に近づく。内蔵助の言葉から磯貝の自分への想いを悟ると、「嘘を必ず真に返す」と言葉を残し自害する。
荒木十左衛門【あらきじゅうざえもん】
幕府の目付。苅屋城受取の副使として、内蔵助から浅野大学によるお家再興の嘆願を受ける。討入り後には、幕府の裁決として浪士たちに切腹を申し渡す。その際、一存で、吉良家の養子義周も処分されたことを伝える。