江戸城本丸松の廊下で実際に起きた赤穂藩主の刃傷事件。武士の喧嘩は両成敗の原則にもかかわらず、幕府は斬った大名浅野内匠頭は即日切腹、斬られた旗本吉良上野介はおとがめなしの裁定を下した。藩は取り潰され家臣は浪人。主君の無念をはらすのが侍の義ではないか。国家老大石内蔵助をはじめとする赤穂の浪士たちは、仇討ちを心に誓う。仇討ちをめぐって起きる様々なドラマを織り上げた、昭和が生んだダイナミックなせりふ劇。
江戸城内が俄かに騒がしくなり、大名やお坊主衆が狼狽気味に行き交いますが、聞こえてきたのは「吉良殿が切られた? 相手は誰だ」。城内松の廊下で取り押さえられた播州赤穂の城主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は興奮を抑えきれず、しかし剛力の梶川与惣兵衛に組み伏せられ、ついに刀を放しました。殿中で刀を抜いた以上、「どのようなお咎めがあっても致し方ない、ただ残念なのは吉良上野介を討ち損じたること・・・」と神妙に言上します。即日切腹を申し渡された内匠頭の心に残るその無念を、「(傷は)急所ゆえ、養生のほどはいかがあらん」と和らげたのは御目付役のひとり、多門(おかど)伝八郎。伝八郎は、愛宕の田村邸での主人の切腹にただ一人かけつけた片岡源右衛門に、庭先での無言の対面を許します。内匠頭はそれに気づくと、源五右衛門に聞こえるように悔しい思いを言い遺して切腹します。
5日後の家老の大石内蔵助ほか家中が集まる播州赤穂城内。すでに知れているのは殿様が殿中で刃傷に及び、田村家お預けとなったことのみ、その後の沙汰はまだ伝わっていません。そこへ待ちに待った第二の使者が到着、伝えられたのは即日切腹、上屋敷下屋敷の即刻取り上げという厳しい裁定でした。しかし京都より戻った小野寺十内から聞き及んだ公家や禁裏の評判に「家名断絶、国郡没収は是非なき次第ながら、仇敵(きゅうてき)上野介を討ち洩らしたること不びん・・・」という言葉が出ると、まさしく殿は救われたと内蔵助は感嘆するのでした。
赤穂では連日の評議が続けられ、籠城か切腹か、復讐かと、見通しの付く様子もなし。藩の資産整理を命じられた勘定方の岡島に、大石内蔵助は、「潔くする者には、おのれを立てる偽り。卑怯未練に見える者には、隠されたる道理真実」と、誠実(まこと)を見ることの大切さを説きます。しかし日を追うごとに集まる人数は減り、300余人の藩の者もわずか50人余、そして一同は評議一決、何事も内蔵助に委ねる決意をします。そんな中、槍を担いで内蔵助を訪ねてきたのは旧知の友で今は浪人の井関徳兵衛。籠城決戦を信じて息子とともに加勢に駆けつけましたが内蔵助は相手にしません。ついに腹を切って息絶えようとする徳兵衛に「内蔵助は天下のご政道に反抗する気だ」と告げました。内蔵助は、死にゆく徳兵衛に、はじめて本心を語ったのです。
元禄15年3月、京の街では遊興にふける内蔵助の姿が連日見掛けられ、その真意も知れず業を煮やした堀部安兵衛や不破数右衛門などは、別派を組み仇討ちを遂げようとさえしています。内蔵助の長男・松之丞も本心の放埓と思い、彼らの手を借りて自ら元服し祖父の幼名主税(ちから)を名乗る決意をします。一方、内蔵助は京伏見橦木町の揚屋で遊女浮橋を相手に文字通りの放蕩三昧、そこへ元服を果たして血気にはやる主税が来ますが、内蔵助は「計りごとは・・・人の手からは・・・水が洩るのじゃ」と戒め、「復讐を最後の目的としてはならぬ。故主に対する至誠をつらぬくが本来の第一義」と諭します。実は内蔵助は、内匠頭の弟浅野大学頭を立ててのお家再興願いが叶えば、仇討ちの大義がなくなることに苦しんでいます。
御浜御殿は甲府徳川家の下屋敷で、あるじは後に六代将軍家宣となる徳川綱豊。綱豊の寵愛を受ける中臈お喜世に、今日のお浜遊びを隙見したいと懇願しているのは、義理の兄の赤穂浪士富森助右衛門でした。実は今日の客の中に吉良上野介がいるのです。とりあえず祐筆江島のはからいで許されますが、さらに何と綱豊自らが助右衛門に対面します。綱豊は浪士たちに仇討ちをさせたい心情を学問の師新井白石に打ち明けていましたが、浅野家再興の話が持ち上がり、再興と仇討ちは両立できないと困惑していたところでした。綱豊と助右衛門のあいだに、仇討ちを巡って激しい論議が展開します。そしてその夜更け。上野介が余興の能の装束を着けて舞台へ上がると思い、槍で襲い掛かった助右衛門。しかしそれは綱豊卿その人でした。綱豊は「身のほど知らずの大たわけ、それは天下義人の復讐とは云われぬ、道理が分からぬか」と助右衛門を打ち据えるのでした。
元禄15年12月13日。浅野内匠頭の菩提所、芝高輪の泉岳寺には雪の中をあちらこちらから参詣に来る浪士たち、内蔵助の姿も見られます。もう一人の参詣者は京都伏見稲荷の神官にして国学者の羽倉斎宮(いつき)。仇討ちがなかなか実行されないことに怒り、浪士の姿を見つけると、「腰抜け、あこうでのうてあほう浪人」と罵ります。
赤坂南部坂、実家三次浅野家中屋敷に住まう内匠頭の後室瑶泉院と屋敷の者たちも、世間の噂が高まる仇討ちの真偽を測りかね、隠居の暇乞いに来たという内蔵助に恨み言も口を突いて出ます。しかし内蔵助は、自作の歌集だという袱紗包みだけを残して帰ります。屋敷の外に出るとまたも羽倉斎宮から罵倒され、引きずり倒されます。斎宮が去ると、屋敷の窓があいて瑶泉院が姿を見せました。袱紗の中の同志連判状に気づいたのです。内蔵助に感謝する瑤泉院。それが今生の別れとなりました。雪が一段と激しくなったそこへ、明14日は上野介が屋敷に在宿という浪士からの知らせ、14日は殿の命日…。
元禄15年12月14日、まだ夜も明けぬ本所吉良上野介屋敷の裏門。すでに表門、裏門と分かれて浪士たちが討ち入ってから時も経ち、上野介の行方探索の頃、門外には参加を許されなかった者たちがしきりと様子をうかがっています。邸内で騒ぎ声が上がり、ようやく姿を現した堀部安兵衛の言葉からついにことがわかります。隣接した屋敷からは加勢が入る様子もなし、また当然吉良の縁戚上杉勢が押し寄せて一戦交える覚悟でしたが、やってくる気配はありません。軍法の故実に従い、浪士たちの一人寺坂吉右衛門が瑤泉院や本国への報告のために姿を消していきました。夜も明け、一同は上野介の首を掲げて永代橋を渡り、鉄砲洲、汐留を経て高輪の泉岳寺へと向かいます。
泉岳寺では異様な風体の侍の軍団が向かってくるので大騒ぎ、しかし仇討ちを果たした赤穂の浪士たちと知れると、寺中が手柄を讃えます。そこへやってきたのは途中から連判を離れた高田郡兵衛、自分は決して裏切者ではなく反対する一徹な伯父ゆえと訴えますが、相手にする浪士はいません。やがて一同は内匠頭の墓所へと向かいます。焼香の一番は間十次郎、二番は武林唯七、上野介を見つけ一番槍と一番太刀を浴びせた者たちでした。幕府の沙汰を待つ間に寺の者たちに手柄話をせがまれて、討入りの次第がだんだん明らかになっていきます。瑶泉院の使者としてやってきた戸田の局が一同と対面し、御礼とねぎらいの言葉を伝えます。
幕府大目付、仙石伯耆守(ほうきのかみ)の屋敷。時は少し戻って15日の朝、屋敷の表には異様ないでたちの浪人体の者が二人、先ほど仇討ちを果たした浪士吉田忠左衛門と富森助右衛門です。伯耆守は家中一同ひたすら天下のお裁きを待つという、その潔さに感心して二人を丁重に扱います。夜を迎えると泉岳寺から浪士たちが屋敷に連れて来られ、一同と対面した伯耆守は改めて仔細を尋ねます。そして「短慮のための刃傷ではござりませぬ。家を捨て身を捨て、家中を捨てても斬り伏せたい一念」「われらはただ、故主最後の一念を継届けたるのみ」との内蔵助の言葉に心を打たれるのでした。いよいよ夜が更けると浪士たちは毛利、水野、松平、細川の四家に分かれ、お預かりの身となってゆきます。
元禄16年2月4日の午後。細川越中守の屋敷には大石内蔵助以下17名がお預けとなり、この日は異例にも細川家の若君内記(ないき)が目通りにのぞみ、内蔵助に一生の宝となる言葉を所望、内蔵助は「人はただ初一念をわすれるな」という言葉を返しました。ややあってひとりの小姓がやって来ますが、内蔵助は女であることを見破ります。浪士のひとり磯貝十郎左衛門がそのおみのという女の婿になるはずであったのが、姿を消してしまい、しばらくしてこの快挙を知り、おみのは十郎左が本心か吉良邸の情報が欲しかっただけなのか、それを確かめたいと男の姿で忍んできたのでした。内蔵助が十郎左の懐におみのの琴の爪が忍ばせてあることを明かすと、おみのにはもう察しがつきました。やがて目付荒木十左衛門より浪士全員の切腹の上意が告げられます。もはや切腹の刻限、おみのは自害して十郎左を見送ります。浪士たちはつぎつぎと切腹して果て、最後に残った内蔵助は晴れ晴れとした表情で、心静かに死出の道へと歩むのでした。
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