観劇+(プラス)
衆道(しゅうどう)ここに注目
現代では同性婚をみとめる国もあるし、日本でも結婚は無理でもパートナー制をみとめている自治体があるが、江戸の昔には、愛をつらぬく僧侶と稚児は心中するしか道はなかったようだ。現在江ノ島の稚児ヶ淵と芝居の舞台装置はソックリでゾクッとする。
清玄桜姫物
土佐浄瑠璃の『一心二河白道』(いっしんにがびゃくどう)に始まる人形浄瑠璃、歌舞伎脚本共通の一系統。清水寺の高僧清玄が桜姫の色香に迷い堕落して死に至るという内容。南北のこの作は<清玄桜姫>に『隅田川』ものの世界を加えて深みと複雑さを加えている。
隅田川物ここに注目
能の『隅田川』は、都の公卿の子息梅若丸が人買いにかどわかされ、東(あずま)まで下ってきたが、隅田川の川辺まできて力つきて死んでしまい、跡を追ってきた母がそれを知って悲嘆に沈むという物語に、『伊勢物語』で知られた業平東下りの「名にし負はばいざこと問はむ都鳥」の歌物語を重ねた名作である。人形浄瑠璃、歌舞伎脚本などの戯曲の一系統となり、梅若丸に松若丸という双子の兄弟がいたとする話が『雙生隅田川』(ふたごすみだがわ)、その松若をいじめる法界坊が出るのが『隅田川続俤』(すみだがわごにちのおもかげ)、桜姫という姉の騒動が『桜姫東文章』、松若丸に花子と桜姫という姉妹が絡む話が『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)~女清玄』、信夫の惣太の梅若殺しを発端とする『都鳥廓白浪』(みやこどりながれのしらなみ)と、さまざまな物語が連なる。現在も墨田区の北方・木母寺(もくぼじ)に梅若塚があり、4月15日に梅若忌が行われ、当日は梅若の涙雨といって雨天が多いといわれている。
目千両
桜姫を初演した五代目岩井半四郎は「目千両」と称された化政期を代表する女方。美貌で愛嬌がありすぎるといわれた程で、おまけにセリフまわしもすぐれていた。半四郎あってこそ、姫の堂上言葉と安女郎の伝法な言葉のないまぜのセリフの妙が聞かれたのだろう。悪婆も得意としていた。
【画像】五代目岩井半四郎 『隅田川花御所染』清玄尼 (C)早稲田大学演劇博物館所蔵
風鈴お姫
権助によって小塚っ原の女郎に売られた桜姫は、その二の腕がか細くて、刺青が鐘でなく風鈴に見えるところから姫言葉もあいまって風鈴お姫と渾名された。
初世歌川豊国(1769~1825)
浮世絵歌川派の祖。美人画や合巻、絵本など多くの作品を残したが文化(1804~17)以降は役者絵がその多くを占めるにいたった。南北の舞台も豊国によってその雰囲気が良く伝えられている。三囲(みめぐり)の場で、振袖の上に古簑を着て笠を持った下げ髪の桜姫と赤子を抱いたみすぼらしい清玄のすれ違う場面を巧みに描いた一枚がある。
T&T応援団ここに注目
昭和50年6月新橋演舞場で通し上演された折、珍しい現象がおこった。権助を演じた片岡孝夫(現・仁左衛門)と桜姫と白菊丸を演じた坂東玉三郎の孝と玉の頭文字・Tを付けた「T&T応援団」という若い女性の組織が自然発生的に誕生したのだ。大学生や若いOLが中心だった。役者の後援会ではなく、「孝夫と玉三郎の共演する南北作品の上演を応援する」今までにない組織で、署名を集めて興行会社に働きかけを行うなどの動きがあった。南北の濃厚な芝居を上演してもあくまで爽やかな孝夫・玉三郎の芸風が生んだ稀有な現象だったと思う。
ないまぜ
歌舞伎脚本を作る際、全く異なる筋立てを二作品以上まぜて新しい脚本を作ることを“ないまぜ”という。縄を綯(な)うように複数の筋を交ぜるという意味である。この作品は「清玄桜姫物」に「隅田川物」を加えたないまぜ。また桜姫が使う言葉も、姫の堂上言葉と当時の日常語、それも下層階級の女郎の言葉を交互に一つのセリフに入れ込む、ないまぜのセリフである。たとえば、清玄の幽霊にむかって「自らをみくびってつきまとうか。世に亡き亡者(もうじゃ)の身をもって、緩怠至極(かんたいしごく)エエ、消えてしまいねえよ」のごとくである。「自ら」は私、「緩怠至極」は、無礼きわまりないという堂上言葉。