観劇+(プラス)
実在の英雄 鄭成功ここに注目
和藤内のモデルとなった鄭成功は1624(寛永1)年、中国南部福建省で武力を蓄える貿易商鄭芝龍(ていしりゅう)と、日本の平戸の女性田川まつとの間に生まれた。日本名を福松といい7歳の時に父の国中国へ渡る。おりしも中国では漢民族の明王朝が満州族の清にとってかわられ、明国の皇族と遺臣は軍を起こし、明国の復興を目指し清に抵抗していた。明軍の将軍となった鄭成功は、一時は南京を包囲するまでの奮戦を見せたが、やがて南に撤退し、1661年、オランダ東インド会社占領下にあった台湾を解放し、開発に努め、三代にわたり鄭氏が台湾を統治した。
鄭成功らは徳川幕府に対し、明国復興のための援軍を再三要請したが、徳川幕府は鎖国を理由にこれを断り、交易の便宜を図るにとどまった。鄭成功の出生やその活躍は、当時日本でもよく知られていたらしい。
日本でもなく中国でもなく
「和藤内」は“和(日本)でも唐(藤に音がおなじ。中国)でもない”という意味らしい。二国にとどまらぬ世界規模の人物を示唆するネーミングだ。
国姓爺ここに注目
「国姓爺(こくせんや)」とは、鄭成功が皇帝から深く信頼され、皇帝の名字である“朱”を名乗ることを許された人ということを表す呼び名である。(“爺”は成人男子に対する尊称)。鄭成功は遠慮して朱を名乗ることはしなかったが、どれだけ重用されていたが想像できる。近松門左衛門は本来の“姓”ではなく“性”の字を使っているが、これはフィクションであることを主張したかったためだと言われている。
帰去来(きこらい)、ぴんかんだんす、ちいぱあちいぱあ
ところどころで発せられるよくわからない言葉の数々。話の筋からして「帰れ」などと言いっているように見えるが・・・じつはこれらは近松門左衛門が中国の言葉らしく聞こえるよう作り出した台詞なので意味は通じなくてよいのである。
とらとらとーらとら
映画のタイトルではない。屏風の陰に隠れた二人が、それぞれ武人、おばあさん、虎、いずれかのジェスチャーをしながら姿を現し勝負するお座敷遊びである。武人は和藤内、おばあさんはその老母をあらわす。虎はおばあさんに勝つが、和藤内に負ける。しかし和藤内はおばあさん(母)には頭が上がらない。『国性爺合戦』の虎退治の場をイメージして生まれた遊びである。
唐猫(からねこ)
獅子ヶ城内で、錦祥女に刃を向ける甘輝将軍に対し、和藤内の母が継娘をかばい、またそれを錦祥女がかばう場面を“唐猫のくだり”という。手を縛られた母が口で娘を抑えるさまが、「唐猫が塒(ねぐら)をかゆる(替える)如くにて(猫が子猫をくわえて寝床を移動する時のようにみえる)」と浄瑠璃で語られるからである。
和藤内は少年の心でここに注目
交渉よりもまず力で解決、と意気込む和藤内はいかにも一本気で幼い。というのも、天明期以降、和藤内は市川家の荒事演出で演じられるようになったからである。隈を取り、碇綱のどてらの衣裳に本丸くけの帯、大太刀をさしたさまは、『矢の根』の五郎などに通じる荒事の若衆である。また楼門の幕切れと、紅流しを見て城に走りこむ場で二回六法を踏むが、一演目の中で二度も六法を踏むのはこの和藤内しかなく、しかも四種しかない飛び六法のうち二つまでも披露している。
日本無双、唐土稀代
獅子ヶ城に飛び込んでくる和藤内と対峙する甘輝は、ここで髭をしごいて決まる見得をする。これは“関羽見得”という。『三国志演義』でわが国にもよく知られた英雄関羽雲長が、見事なあご髭をしごく様を連想させるからで、歌舞伎十八番『関羽』のほか、『俊寛』でも見ることができる。
名のない母ここに注目
駄々っ子のような和藤内に対し、人としての義理を重んじ日本の良心を一身に体現しているのは和藤内の母である。物語のポイントとなる重要な役だが、近松門左衛門はこの母に名前を付けていない。歌舞伎では磯野や浜路といった名前が付けられるが、最近は渚という名が用いられることが多くなっている。