観劇+(プラス)
椀久が二人?ここに注目
二人椀久のタイトルは、松山が椀久の羽織を着ることに由来する。つまり、椀久が二人いるように見えるからだ。
初演では、松山は羽織と大小の刀を差して男の姿を写し、片側は男の身振り、片側は女の身振りをして男女を踊り分けた。この演出は京の人形芝居で辰松八郎兵衛が使った人形の振りを写したものだという。現行ではこの踊り分けるという演出はないが、松山が羽織を着るパターン(初代尾上菊之丞振付)と、羽織が松山の裲襠(うちかけ)に変わるパターン(初代花柳壽楽振付)などがある。椀久の羽織は、十徳(茶人や僧侶の上衣)にする場合もある。
男の衣を着て舞う女ここに注目
松山が椀久の羽織を着て舞うのは「女が男の着物を着て、男の面影を偲ぶ」系譜に連なる。能「井筒」で、紀有常の娘(井筒の女とも)が在原業平の形見の直衣を着て、その身を井筒の水に投影して男を偲ぶ場面は、その代表的な例。能「松風」でも海女の松風が在原行平の形見の烏帽子、狩り衣を着て舞う。形見を身に着けることで男と一体化し、その面影を自己の中に見るのだという。『二人椀久』では、能「井筒」のクセ(一曲の中心となる部分)を詞章に取り入れ、椀久と松山の連れ舞にしている。ここにも二人という名の由来がほのめかされている。
名曲に名コンビあり!
夢の中で恋人同士が踊るというロマンチックなこの舞踊は名コンビを生んだ。中でも故五代目中村富十郎(椀久)と故四代目中村雀右衛門(松山)のコンビによる味わい深い名舞台が知られ、この舞踊がもてはやされるきっかけとなった。続いて十五代目片岡仁左衛門(椀久)と五代目坂東玉三郎(松山)のスタイリッシュなカップルが夢幻の世界を構築して人気を得、こちらも上演を重ねた。
椀久のモデル
椀久は江戸時代前期に実在した大坂御堂前(堺筋とも)の陶器商・椀屋久右衛門という人物がモデルとなっている。大坂新町の遊女・松山に深くなじみ、豪遊が過ぎたために親戚縁者に座敷牢に入れられ、発狂して家を出て水死したとも、養生先の京都で亡くなったとも言われている。その豪遊ぶりのエピソードがすごい。お盆に正月の遊びをすると称して、廓中の妓楼に門松を立てさせ、自分は年男になって豆まきをするという設定で、豆のかわりにお金を枡に入れ、座敷から座敷へと蒔いて歩いたとか。