紅葉狩 モミジガリ

観劇+(プラス)

執筆者 / 飯塚美砂

三方掛合(さんぽうかけあい)ここに注目

歌舞伎の舞台で地方(じかた=舞踊の伴奏)が二つ以上出て、それぞれ順番に、または交互に演奏することを掛合(かけあい)という。この『紅葉狩』は義太夫、長唄、常磐津の三方掛合という珍しい演奏方法をとっている。舞台には、上手の義太夫の床(ゆか)に加えて正面上手に長唄囃子連中の並ぶ雛段(ひなだん)、下手に常磐津の山台(やまだい)が並び演奏を繰り広げる。中心となるのは常磐津で、義太夫と長唄は常磐津に調子を合わせていくという。

九代目市川團十郎の紅葉狩

歌舞伎の『紅葉狩』は新歌舞伎十八番の一つ。能の『紅葉狩』をもとにしているが、河竹黙阿弥が九代目市川團十郎の意向を汲んで書下ろし、常磐津は岸沢式佐、竹本は鶴沢安太郎、長唄杵屋正次郎という当時の第一人者が作曲、振付は九代目自らが当たるという力の入れようであった。舞台も能写しと言いながら松羽目でなく、舞台いっぱいに紅葉を描き、姫の踊りの部分もたっぷりと見せる華麗な歌舞伎舞踊に仕上げた。初演の配役は、「更科姫実は鬼女」はもちろん九代目市川團十郎、「平維茂」は初代市川左團次、「山神」を四代目中村芝翫という、大ごちそうであった。

再演は1899(明治32)年11月歌舞伎座であったが、この時九代目はすでに63歳。年だから…と固辞する團十郎を、團十郎と「維茂」を演じることになった五代目尾上菊五郎の二人そろった舞台は、後進の手本にもなることだから是非に、と周囲が説得し上演の運びとなった。『紅葉狩』の幕開きに、八百蔵(後の七代目市川中車)が裃姿で口上を述べたという。

山神ここに注目

現在『紅葉狩』の山神は若手の俳優が童形で踊ることが多いが、これは九代目市川團十郎が再演時に山神の役を尾上丑之助に踊らせてからのことである。当時、團十郎はライバルでもあった五代目尾上菊五郎の息子丑之助の素質を見込んで手元にあずかり、厳しく仕込んでいた。初演時は歌舞伎界の重鎮四代目中村芝翫が老体で演じたこの印象深い役を、15歳の丑之助に踊らせたのである。丑之助はのちの名優六代目尾上菊五郎。そのはつらつとした姿は映画『紅葉狩』で見ることができる。

重要文化財 映画『紅葉狩』

九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の動く姿を見られる映画である。
1899(明治32)年11月28日に撮影された。同月、歌舞伎座で上演されていた舞台を、屋外の特設ステージで撮影したもので、あいにく風の強い日だったことから風にあおられ團十郎が二枚扇を受け損なってしまったところもしっかり写っている。日本人の手によって撮影された初めての映画であり、2009年(平成21年)、映画フィルムとして初の重要文化財に指定されている。当時まだ誕生間もない「映画」というものを日本に紹介することを意図して製作された。

余吾将軍(よごしょうぐん)

平維茂は平安末期に活躍した勇猛な武将で、将軍に任じられる前から余五将軍とあだなされた。余五というのは、十余り五=十五のこと。平将門と戦ったことで知られる平貞盛は甥や孫などを何人も養子にしたが、維茂もそのひとりで15番目の養子であったことから、“余五”と呼ばれたという。歌舞伎では“余吾”という字を使っている。