盟三五大切 カミカケテサンゴタイセツ

観劇+(プラス)

執筆者 / 金田栄一

五大力ここに注目

五大力菩薩の信仰が享保・元文年間(1716~40)に流行し、書状の封じ目に「五大力」と書くと他人に開封されず無事に届くと、特に女性たちの間で信じられてきました。それが転じて、女性たちが身のまわりの物に五大力と書き、好いた男性への貞操の証しとされるようになりました。『五大力恋緘』でも小万が芸者の命である三味線の裏皮にこの字を書いています。

実説五人斬り

薩摩源五兵衛のモデルとなっているのは早田八右衛門という人物。薩摩の侍で、桜風呂の菊野という遊女を恨み大坂北の新地曽根崎で菊野をはじめ5人を斬ったという事件が1737(元文2)年7月3日未明に実際に起きています。八右衛門は身持ちの良い侍で大坂勤番の日限も過ぎていましたが、殿様の用事で引き続き大坂に逗留することとなり、その間に菊野に参ってしまい御家の金まで使い込んでしまいました。菊野の方は八右衛門の金で深間の男に逢うなど繰り返したため、一徹な薩摩侍の怒りが一気に爆発したようです。八右衛門は本国へ帰還直後につかまり、大坂に戻されて処刑されました。

伊右衛門が住んでいた長屋

源五兵衛の魔の手を逃れ、三五郎と小万が逃げ込んだ四谷の長屋は、実は神谷伊右衛門が住んでいたところで、おかげでお岩の幽霊が出るという設定になっています。本作初演の2か月前に大当たりをとった『東海道四谷怪談』の筋を当て込んでいるわけです。果たして夜更けに幽霊が出ますが、三五郎と小万は怖がるどころか幽霊につかみかかります。ふたりにとっては殺人鬼と化した源五兵衛にくらべれば、幽霊などは怖くないのです。幽霊は実は家主弥助で、借家人を追い出すための悪だくみだったことがわかります。

本首ここに注目

小万の首を前に源五兵衛が飯を食う場面は、この作品のハイライト。まるでままごとのように源五兵衛が小万の口へ飯を近づける場面では、小道具に替えて小万の役者本人が首を出しています。源五兵衛が箸で飯をつまんで小万の口に差し出すと本首がカッと口を開けるので、その生々しさに客席は騒然とします。ちなみに原作では本首ではなく、源五兵衛が首に茶をぶちまけることとなっています。

ニヒルな殺しの魅力

江戸時代には人気のなかったこの作品は、1969(昭和44)年に石沢秀二脚本演出によって青年座で新劇として上演され、1971(昭和46)年には松本俊夫監督によって『修羅』のタイトルで映画化されています。源五兵衛のニヒルで不気味な存在感、欲望と裏切りの混沌とした世界観、因果応報とならない結末の理不尽さなどが評価され、70年代の南北ブームのさきがけとなりました。1976(昭和51)年の国立小劇場の、郡司正勝補綴演出による歌舞伎復活上演では、初代尾上辰之助の源五兵衛が小万の首を懐にして花道に佇むと、通常の歌舞伎では使われない効果音の雨音がすさまじい音で響き、異常性を際立たせる演出でした。

佃の風情と舟

序幕の「佃沖」は、いかにも涼しげな江戸の舟遊びの光景を観客に伝えてくれます。徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から漁師を呼び寄せ、隅田川の河口の干潟を埋め立てて住まわせ、漁業の特権を与えたのが現在の佃島のもとで、超高層マンションがならぶいまでも、わずかながら漁師町の面影が残っています。隅田川の下流を大川と言い、永代橋をくぐってすぐ佃島で、その先は江戸湾でした。深川の船宿から舟に乗り、越中島から大川に出てすぐに佃島の沖に出る。春は白魚漁の漁り火が美しく、夏は夕涼みに格好のコースでした。舞台には浪布、聴こえてくるのは隅田の川風と下町の情緒が伝わってくる「佃の合方」に、大太鼓の「浪音」。大川の河口の場面にはやはり海と同じ浪音が似合います。小万と三五郎が乗っているのは小さな猪牙(ちょき)舟、舳先が猪の牙に似ているのでこう呼ばれ、江戸では吉原通いによく使われていました。三五郎もそうですが、猪牙舟の船頭にはどこか粋な風情があります。一方、源五兵衛が乗っているのは少し大きな屋根船で、これも隅田川の舟遊びによく使われています。さらにもっと大きな船が屋形船です。



【写真】葛飾北斎「冨嶽三十六景-武陽佃島」