頼朝の死 ヨリトモノシ

観劇+(プラス)

執筆者 / 寺田詩麻

鎌倉時代を舞台に

明治末から大正期には、鎌倉時代を舞台とする新歌舞伎の作品がいくつか作られている。たとえば坪内逍遙には「鎌倉罪悪史三部作」として『牧の方』『名残の星月夜』『義時の最期』があり、ほかには1911(明治44)年3月東京帝国劇場の開場狂言となった山崎紫紅『頼朝』や、同年11月東京歌舞伎座の榎本虎彦『鎌倉武鑑』(フランス戯曲の翻案)などがある。脚色の対象とする時期や方法はさまざまだが、『頼朝の死』は、その流れの中で生まれてきた作品のひとつと見ることもできる。

頼朝の死因ここに注目

頼朝の死因は、鎌倉時代初期の正史である「吾妻鏡(あずまかがみ)」に直後の記述が欠けているため、正確にはわからない。いくつかの説があり、おもなものだけで、落馬による打撲、飲水病、糖尿病、暗殺などが挙げられる。御所の女房のもとに忍ぼうとして誤って殺されたというのは俗説のひとつで、「頼朝最後物語」に記述がある。それを本作では、家を守るために隠さなければならない事実として作品の中心に置き、事実を知りたい個人の意志を貫こうとする頼家と、夫のために傷つき、家を守るためには犠牲を出すこともいとわない母尼御台を対比的に描いているところにおもしろみがある。

頼家の性格ここに注目

幕府の実権を握ろうとして失敗し、幽閉・暗殺された鎌倉幕府二代将軍・源頼家を主人公として作られた新歌舞伎の作品には、有名なものではほかに岡本綺堂の『修禅寺物語』がある。やや異なるのは、本作の頼家は暦学や算術を深く研究する合理主義的なところと、激情家で、父の死の本当の原因を知らなければどうしても気がすまない頑固さを兼ねそなえていることである。その性格はシェークスピアの『ハムレット』に似ていると評されることもある。

もととなった『傀儡船(くぐつぶね)』

『頼朝の死』は、1919(大正8)年11月東京明治座で初演された『傀儡船』を改作して縮めた作品である。『傀儡船』では、小周防は197年前に滅びた異国「トウマイ四十八酋国」の王の子孫、小三日(こみか)の娘という、びっくりする設定がされている。劇のはじめには、小三日の率いる流浪の民の傀儡たちが人形劇や剣の舞を行う場面があり、異国情緒をかもしだす。小三日が小周防に、自分が実の母であると話すと、小周防は片思いの相手重保が頼朝の死の真実を告白したことをうちあける。そして劇の終盤には、小周防が斬られたあと小三日が重保を仇として憎み、重保たちの武士道を激しく非難する場面がある。
小三日は異国の民で、日本の武士社会のおきてに従う必要がなく、そのおきてによって娘が殺されれば復讐に燃える強い女である。『傀儡船』のこうした人物造型には、直接には19世紀に行われたロマン主義文学の影響があるようで、『頼朝の死』だけでは想像のつかない、スケールの大きな伝奇作品である。現在の人権意識に照らすと上演のむずかしい部分がかなりあるが、考証の厳密な史劇の印象が強い作者真山青果の、また違った面が見られる作品として、再評価されてよいもののひとつであろう。